属人区長の手紙(2018年1月9日)

「自由への愛と朗らかさを皆さんへの遺産として残したいと望んでいます」と聖ホセマリアは語っていました。この教えに関連づけて、属人区長はこの書簡において、その遺産に感謝をし、自由というたまものについて考えを深めるよう招きます。

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愛する皆さんへ。イエスが私の子供たちを守ってくださいますように。

1.ここ数ヵ月の間、総会の方針に従ってしばしば自由について言及してきました。今、この手紙では、生涯にわたり自由を愛した聖ホセマリアの教えに沿って、この神の偉大なたまものについて考えたいと思います。聖ホセマリアは、「子どもたちよ、私は倦むことなく繰り返します。オプス・デイの精神にとって最も明らかな特徴の一つは、自由と理解を愛することです」[1]と書き記しています。この言葉を読み返し、黙想するにあたり、神に感謝しないわけにいきません。と同時に、この言葉を自分の生活において実践するには、どうすべきかを、各々、神の恩恵の助けを受けて検討しましょう。こうして、一人でも多くの人が「神の子供たちの栄光に輝く自由」(ローマ8,21) に与ることができるよう助けるために、よりよい準備ができるでしょう。

人々と国々が自由を熱望し、自由を要求するということは、私達の時代の肯定的なしるしです。人間一人ひとりの自由を認めることは、誰もが人格を持つ人間であることを認めることです。すなわち、各々が自らの行為の主人・責任者であり、自らの生き方を定める能力があることを認めるのです。自由が各々に備わっている最良のものを常に発揮させるとは限りませんが、自由の重要性は幾ら強調しても足りません。自由がなければ、愛することができないからです。

多くの場所で真の自由に対する大きな無知が広がっています。とても残念なことです。制限のない空虚な自由を追い求め、まるでそれが進歩の究極目的のように考えられることがあります。その一方で、悲しむべき様々な抑圧や、自由に見えるものの実際は人間を隷属させている鎖があることを嘆かないわけにはいきません。いずれも、遅かれ早かれ虚しいものであることが明らかになるでしょう。教皇は書いておられます。「神から離れていれば自分は自由だと考える人もいますが、彼らはいつでも帰ることのできる家を失った、孤児のような生き方をしていることに気づいていません。旅する者であることを止め、さすらい人」[2]となっているのです。

自由を得るために召し出された

2.私たちは、「自由を得るために召し出されたのです」(ガラテア5,13)。創造の御業自体が神の自由の表われです。創世記の叙述は、創造における神の愛、自らの善と美を世界に伝える時と (創世記1,31参照)、人間に自由を与える際の (創世記1,26-29参照)、神の喜びを垣間見せてくれます。神は私たち一人ひとりに存在を与えるにあたり、私たちが善を選び望む能力を、そして神の愛に対して愛をもって応える能力を与えてくださいました。しかし、被造物としての限界により、私たちが神から離れてしまう恐れもあります。「《ご自分の像、似姿》(創世記1,26参照)として人間を創造するにあたり、神が人間に自由を与えるという崇高な《危険》を望まれたことは、神的知恵の神秘です」[3]

実際、この危険は歴史の始まりから、原罪による神の愛の拒絶となって現れました。こうして、善に対する人間の自由は弱まり、意志は罪に傾くようになってしまったのです。その後、個人的な罪によって自由はますます弱くなり、罪は多かれ少なかれ隷属状態を示すようになりました。 (ローマ6,17.20参照)。しかし、「人間はいつも自由であり続けます」[4]。「人間の自由はもろい」[5]とは言え、自由は人間一人ひとりの守るべき本質的善であり続けます。神こそ、第一に自由を尊重し、愛する御者です。「神は奴隷ではなく子供としての私たちをお望み」[6]だからです。

3.「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5,20)。恵みと共に、新しい、そしてより崇高な自由が生まれました。それによって、「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテア5,1)。主は、贖いの力を持つ御言葉と御業によって、私たちを罪から自由にしてくださいます。「カトリック信仰の神秘のいずれをみても、このように自由を称えています」[7]。イエス・キリストが私たちの生活の中心においでになることが必要であることを、繰り返し思い出してもらいました。自由のより深い意味を見出すためには、主を観想しなければなりません。私たちは、純粋な愛によって、私たちと同じ肉体をとり自らを無とされた神の自由に驚くことでしょう。私たちのために、地上の歩みにおいて十字架の生贄へと向けられた自由だったのです。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。(…)だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」(ヨハネ10,17-18)。主の十字架における奉献ほどの深い自由の行為は、人類史上かつてなかったものでした。主は「愛に動かされて、進んで自由に、自らを死にお渡しになった」[8]のです。

聖ヨハネの福音書は、主を信じた人々となさったイエスの対話を語っています。その言葉の中で、Veritas liberabit vos、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8,32) という約束が力強く響いています。聖ホセマリアは自問しました。「生涯をつらぬく、この自由の道の始まりであり、終わりである真理とは、一体どのような真理のことでしょう。神と人間の関係を知れば当然もちうる、喜びと確信に満ちた答えを要約してみましょう。ここでいう真理とは、私たちが神の御手から生まれ、至聖なる三位一体の深い愛の対象となり、かくも偉大な御父の子になったということです。この真理をよく自覚し、日々味わう決心ができるよう、主にお願いしましょう。そうすれば、自由な人間にふさわしい生き方ができます」[9]

4. 神との父子関係のおかげで、私たちの自由は神の力を得て大いに適応範囲を広げます。私たちが自由になるとは、父のお住いから独立することではなく、神の子としての身分を大切に受け入れることなのです。「神の子であることを知らない人は、自分に最も近しい真理を知らない」[10]のです。そのような人は、自らと対立して自分自身と争っているようなものです。それゆえ、神が私たちを愛しておられることを知るのは、何と素晴らしい解放でしょう。神の赦しは何と素晴らしい解放でしょう。神の赦しは、私たちが自分自身を取り戻し、真の家に立ち返ることを可能にしてくれます (ルカ15,17-24参照)。人を赦すなら、私たちもまた同じ自由への解放を経験できるのです。

一人ひとりに向けられた神の愛 (1ヨハネ4,16参照) を信じるなら、愛をもって応えることができます。私たちは愛することができるのです。神が先に愛してくださったからです (1ヨハネ4,10参照)。神は、私たちが自分に対する以上に、私たちに親密な方です[11]。神の無限の愛は私たちの存在の始まりにおいてだけでなく、あらゆる瞬間に見出すことができることを知っているなら、心は確信で満たされます。神は人々の中で、私たちを待っておられるだけでなく(マタイ25,40参照)、私たちを通してすべての人の生活に現存することをお望みです。この事実を考えると、私たちは神からいただいたすべての賜物を携え、人々に与える努力をすることでしょう。子供たちよ、私たちは自らの人生において多くの愛を受けてきました。今も受け続けています。神を愛し、人々を愛することは、自由のもっとも固有な行為です。愛は自由を《実現させ》、自由を《贖い》ます。つまり、自由は、愛のおかげで、本来の起源と目的を神の愛のなかに見つけることができます。「自由が本当の意味をもつのは、救いをもたらす真理を得るために使うとき、あらゆる種類の奴隷状態から解き放つ神の無限の愛を、疲れをいとわず求めときなのです」[12]

というわけで、神の子としての意識(感覚)は、偉大な内的自由へ、深い喜びへ、さらに希望から生まれる落ち着いた楽観へと、導いてくれます。それは、「希望をもって喜ぶ」spe gaudentes (ローマ12,12)ことです。神の子であることを知ると、世界を愛するようになります。世界は父なる神の御手から出た善いものです。さらに、善を行い、罪に打ち勝ち、世界を神のもとへ導くことができるという明確な自覚をもって、人生に立ち向かうことができます。これについて、フランシスコ教皇は聖母を見つめながら語っておられました。「キリスト者の自由は罪からの単なる解放以上のものであることを、私たちは恵みに満ちたマリアから学びます。自由こそ地上の物事を霊的な新たな光で見ることができるようにしてくれます。純粋な心で神と兄弟たちを愛するための自由、キリストの御国の到来を喜びにみちた希望に包まれて生きるための自由なのです」[13]

心あるいは精神の自由

5.いかなる強制も受けずに自由に振る舞う。これは、人間の尊厳だけでなく、それ以上に神の子としての尊厳に固有な特長です。同時に、「単に恣意的な自由ではなく、自由に先立って存在する善を認めることによって、真に人間的な自由への愛を強める必要があります」[14]。その真の自由とは、神と和解した自由のことです。

ここで、少し立ち止まって《心あるいは精神の自由》の重要性について考察したいと思います。この表現は、しばしば、気紛れな振る舞いや、いかなる規範にも反抗する態度の意味で使われることがあります。しかし、私はそのような曖昧な意味で使っているのではありません。全ての人々の自由は、わたしたちが通常負っている義務や自ら結んだ(家族、職業、市民社会における様々な)約束によって、具体的に制限されています。しかし、(それら義務や約束を)愛によって果たすなら、すべてにおいて、常に、自由に、行動できます。「愛しなさい、そして、望むことを行いなさい」Dilige et quod vis fac [15]。真の心の自由とは、常に愛によって行動する能力であり、習慣的な態度のことです。特に、各々が置かれた状況のもと、神の要求に従う努力に表われる自由なのです。

「私を愛しているか」(ヨハネ21,17)。主のこの問いかけに対する、独創性ゆたかな態度と常に受諾する心構えを伴った自由な応答、これがキリスト者の生き方です。ですから、「自由と献身は両立しないと考えるほど愚かなことはありません。献身は自由の結果として生まれます。たとえば、母親が自分の子供のために自らを犠牲にするのは、自ら自由に選択したからです。愛の大小に比例して、自由の大小が決まります。愛が大きければ、多くの実を結ぶでしょう。子供たちの善は、献身を意味する幸いな自由と、本物の自由である幸いな献身から生まれるものです」[16]

このような展望によれば、各自が自由に振る舞うよう励ますとは、要求を減らすことではないと理解できます。自由であればあるほど、もっと愛することができます。そして、愛は要求するものであり、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐え」(1コリント13,7)ます。また、愛に成長するとは、自由において成長すること、より自由になることです。聖トマス・アクィナスの言葉によると、「愛が強ければ強いほど、より自由である」 Quanto aliquis plus habet de caritate, plus habet de libertate [17]ということになります。また、やる気がないことや、重荷に感じることを、愛ゆえに果たすなら、つまり、好き嫌いに左右されず、自ら望んで「やる気になって」果たすなら、それは自由な心(精神)で行ったことになります。「神の子としての自覚をもち、父なる神の御旨を果たす熱意を持たなければなりません。《自ら望んで》神のお望みに従って事を運ぶ、これこそ最も超自然的な理由です」[18]

6.喜びもまた、心の自由の表われです。聖ホセマリアが書いています。「人間的な面では、自由への愛と朗らかさを皆さんへの遺産として残したいと望んでいます」[19]。まったく異なるように見える二つの事柄ですが、両者は結び合っています。なぜなら、《愛するために自由である》と自覚しているならば、喜びを感じると共に朗らかな心になるからです。世の中に目を向ける時、生まれながらの性格とは関係なく、出来事や状況の肯定的な面を見ること、「時には楽しむ」ことすらできるのです。フランシスコ教皇が仰っています。「(聖霊は)喜びの創始者、喜びの創造主です。聖霊におけるこの喜びは、私たちにキリスト者の真の自由を与えてくれるのです。キリスト者は、喜びがなければ、自由な者とは言えません。喜びがなければ、私たちは自己の悲しみの奴隷となってしまいます」[20]

この喜びは私たちの生活全体に浸透すべきです。神は私たちの喜びをお望みです。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ15,11)と、イエスが使徒たちにお話しになっている時、私たちにもお話しになっています。それゆえ、自分にとって好ましくない義務であっても喜んで果たすことができます。聖ホセマリアが語るように、「自分の好きな仕事なら喜んで果たすことができるという考えは、正しくありません」[21]。もし愛によって、愛を込めてなされるのであれば、たとえ骨の折れる仕事であっても、喜んで果たすことができます。つまり、自由に果たすことができるのです。1963年4月28日、聖ホセマリアは、声に出して祈った時、1931年に受けたあの光について話しました。「主よ、御身は、十字架に出会うとは幸せと喜びに出会うことであると理解させてくださいました。今、もっとはっきりと分かります。十字架を抱くとはキリストと一つになること、キリストになることです。それゆえ、神の子となることなのです」[22]

7.神法のすべては、また、各自のための神の御旨のすべては、自由を抑圧する法律ではありません。反対に、福音のごとく、「自由をもたらす完全な律法」lex perfecta libertatis (ヤコブ1,25参照)なのです。律法全体は愛の掟に要約されるからです。愛の掟は、外的規則として愛しなさいと命じるだけではなく、内的恩恵として愛する力を与えます。「私の重さは私の愛」Pondus meum amor meus [23]と聖アウグスチヌスが記しています。この言葉によって、愛することはしばしば辛い事だという明らかな事実について述べているのではなく、私たちが心に抱く愛こそが私たちを動かすものであり、私たちをどこへでも行かせてくれるものであると述べているのです。「私は愛によってどこにでも、愛が運ぶところに運ばれていきます」Eo feror, quocumque feror [24]。一人ひとり個人的に自問してみてください。私をどこへでも行かせる愛とはどのような愛なのかと。

心に働きかける神の愛に自己を委ねる人は、自由と献身は対立するものではないことを自ら体験します。「自由と献身は決して矛盾するものではない、かえって互いに助け合うものである。愛があってこそ、自由を捧げることができます。愛がなければ、自由を捧げることはできないのです。当たらずといえども遠からず式に言葉をもてあそんでいるわけではありません。自ら進んで献身するなら、献身は自由の結果ですから、一つひとつの献身の行為が愛を新たにすることになります。そして、献身を新たにするとは、若さと寛大さを失わず、大きな理想をもち続け、大きな犠牲を払う力を維持することです」[25]。それゆえ、神への従順は自由な行為であるのみならず、自由へと解き放ってくれる行為でもあるのです。

イエスは弟子達に、「私にはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われました。「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4,32-34)。イエスにとって、御父に従うことは食物でした。つまり、活力を与えるものだったのです。同じように私たちにとっても、聖ヨハネ・パウロ2世が説明されたように、イエスの弟子であるとは「イエスの人格そのものに固く結びつき、イエスのいのちと運命にあずかり、御父の意志に対するイエスの自由で愛をこめた従順を共有」[26]することなのです。

ベネディクト16世は自由と献身の緊密な関係を掘り下げて語られました。「御父に従うにあたり、イエスは愛に動かされて自覚の上で選択を行い、ご自分の自由を《実現》されました。全能であるイエス以上に自由な方がおられるでしょうか。しかし、イエスは恣意や支配の形でご自分の自由を行使なさったのではありません。イエスは奉仕として自由を用いました。このような仕方で、イエスは自由の内容を《満たした》のです。そうしなければ、自由とは、何かをすることもできれば、しないこともできるという《空虚な》可能性にとどまったことでしょう。

人生そのものと同じように、自由は愛によって意味を与えられます。(…)それゆえキリスト者の自由は、自分の思いのままに振る舞うこととはまったく異なります。キリスト者の自由とは、十字架上の犠牲に至るまでご自身をささげたキリストに従うことです。逆説的に思われるかもしれませんが、主はご自身の最高の自由を十字架上で体験しました。なぜなら十字架は愛の頂点だからです。人々はカルワリオで叫びました。『神の子なら、十字架から降りるがいい』。主はまさに十字架上に留まることによって、子としての自由を示しました。それは、御父の慈しみ深い御旨を完全に成し遂げるためでした」[27]

「主よ、あなたが私を惑わし、私は惑わされてあなたに捕らえられました。あなたの勝ちです」(エレミヤ20,7)。預言者エレミヤのこの祈りには、なんと多くの思いが含まれていることでしょう。たとえ苦しみが伴うとしても、自己の召し出しを一連の義務としてではなく、神のたまものとして受け入れるならば、それもまた、心の自由の表われであると言えます。神はあるがままの私たちを愛されていると知ることは、なんという素晴らしい解放になることでしょう。神は、まず私たちが神の愛を受け入れるようにとお招きになるのです。

8.心あるいは精神の自由とは、有りもしない義務に縛られないことも意味しています。個人の自由なイニシァティブに関わる生活上の細々とした事柄については、柔軟な態度で放棄したり変更したりすることができるということです。20年前にドン・ハビエルが私たち宛てに書きました。「もちろん、果たすべき行為というものがある一方で、具体的にはそこまで要求されていない行為もあります。前者においても後者においても、私たちは自由に、かつ責任をもって、神愛の至高の掟を果たすことを追求すべきです。こうしてあらゆる場合に、自由であり従順であることができるのです」[28]

オプス・デイにおいて、信頼と自由な雰囲気を常に保たなければなりません。この雰囲気があれば、私たちの心配事や理解できていないこと、改善すべきだと思える事柄を、私たちを導く役目を有する人に言い表すことが容易になります。同時に、人間的な限界や困難などを、落ち着いて朗らかな心で耐え忍び、誠実さと忍耐を実行するならば、この信頼という雰囲気はさらに深みを増します。これは良い子どもの振る舞いです。良い子なら、自由を行使するにあたり、自分に理があると信じていても自分自身の見方よりもさらに大切な善、つまり家族の一致や平和という真に貴重な善を優先させます。反対に、「人々から孤立したり、兄弟との一致や交流を断ち切ったりすることがあれば、それこそ神の精神に沿って行動していないことを示す明らかな証拠です」[29]

9.状況によっては苦しむ時もありますが、神はしばしばその状況を私たちがイエスと同化するために役立たせてくださいます。ヘブライ人への書簡に記されているように、イエスは「多くの苦しみによって従順を学ばれ」ました(ヘブライ5,8)。それによって、「御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源と」(同5,9) なったのです。こうして私たちに神の子の自由をもたらしてくださいました。誰もが持っている人間的な限界を克服するために、諦めずに出来る限りの努力を尽くして、その弱さを受け入れることもまた、心の自由の表われであり源泉です。このような態度とは対象的な、放蕩息子のたとえ話の兄の悲しい行い (ルカ15,25-30) について考えてみてください。彼は心の中に苦々しい思いを溜め込み、父に対して怒りをぶつけました。そして、家族の喜びに溶け込むこともできなかったのです。彼の自由は、次第に小さく、利己的になり、愛することができず、「私のものは全部お前のものだ」(ルカ15,31) という父の言葉も理解できなかったのです。自分の家に住んでいましたが、自由ではありませんでした。彼の心はそこになかったのです。

一方、モアブ人ルツの物語はまことに対照的です。自由と献身が家族への深い帰属意識に根差していることが分かります。彼女の姑が、人生をやり直しなさいと、しきりに勧めた時のルツの答えには感動します。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです」(ルツ1,16-17)。

聖母を見つめるならば、自由は忠実な献身において、さらに真価を発揮することがはっきりと分かります。「大天使がいと高き御者の計画を聖マリアに告げたその荘厳な瞬間について考えてみましょう。私たちの御母はまず耳を傾け、次いで、主の要求をさらに深く理解するために質問なさいます。その後、きっぱりと、『お言葉の通りにこの身になりますように』fiat! (ルカ1,38)、とお答えになりました。これこそ、最高の自由が結ぶ実り、つまり神に自らを捧げる自由です」[30]

自由な人々を育て、統治する

10.形成においては個人的な霊的指導が重要な役割を担っています。それは、常に自由な雰囲気の中で行われ、人々が「鳥のように自由である」[31]と感じるよう導く必要があります。聖ホセマリアは、兄弟の打ち明け話を聴く人々に関して、次のように記しました。「霊的指導にあたる者の権威は権限ではありません。どうか人々が心の大いなる自由を感じるようにしてください。これまで幾度も繰り返したことを考えてください。《自ら望む》、これこそもっとも超自然的な理由であると思います。霊的指導者の役目は、人々が神の御旨を果たしたいと望む、自ら望むよう助けることです。命令するのではなく、助言を与えるのです」[32]。霊的指導の助言によって、一人ひとりの霊魂における聖霊の働きを支え、各々が神の御前に自らを置き、自由と責任をもって自己の義務に向かい合うよう助けるのです。「人間を創造する時、神は二人として同じものをお造りにはなりません。一人ひとりは特別な存在です。神が創造された通りに、そして、神がお導きになる通りに、人々と接すべき」[33]です。

通常は、助言と共に愛のこもった勧告を与えることができます。この勧告によって、愛ゆえに自由な心で忠実を保つためには、どのようなときも努力する《価値がある》ことが容易に納得できるでしょう。霊的指導においても、時には、はっきりと、しかし常に愛情と細やかさをもって《命令的助言》を与え、特定の義務を果たすべき事を思い出させることもできます。しかし、この助言の力は、助言そのものにではなく、その義務自体が有する力です。信頼関係があれば、そのような話し方ができるだけでなく、そうすべきです。注意を受けた人は、そのような助言の与え方に、年長の兄弟の剛毅と愛情を認めて感謝することでしょう。

11.要求する必要性を疎かにすることなく、生涯にわたって提供される形成には、《展望を開く》という重要な面があります。もし、要求したり要求されることだけで終わるなら、出来なかったことだけに目を留めたり、自己の欠点や限界のみに目を向けて、私たちを愛する神の愛という、もっとも大切なことを忘れる恐れがあります。

このようなことについて、聖ホセマリアがどのように教えていたかを思い出しましょう。「オプス・デイにおいて、私たちは心から自由を愛しています。内的生活においても同じです。図式や方式に縛り付けられません(…)。霊的生活においてさえ、自分で決める領域は実に広いのです。それは良い事なので、広くあるべきです」[34]。それゆえ、霊的指導において、誠実であれば、助言を受け入れるために自由に心を開くだけでなく、イニシァティブをとって考え、イエス・キリストとますます深く同化(一致)するための、内的戦いの焦点と思える点を、自由に打ち明けることでしょう。

それゆえ、皆に同じ精神を伝えるための形成は、画一性ではなく、一致を生み出します。聖ホセマリアは分かりやすく次のように説明していました。オプス・デイにおいては、「様々な方法で道を歩むことができます。右側を行くことも、左側を行くこともできます。ジグザグに歩いたり、馬に乗ったりして進むこともできます。神の道を歩む方法は実に多種多様です。状況によっては、自らの良心の命ずるところに従って、種々ある中から選んだ歩み方が、各自の義務となるでしょう。唯一大切なことは道から逸れないことです」[35]。オプス・デイの精神は福音のようなものであって、私たちの存在の上に立つものではなく、私たちに生命を与えるものです。各自の土地に蒔かれ成長すべき種子のようなものなのです。

12.形成においては、安全であり確実であることを過度に望むならば、心を委縮させ、私たちを小さくしてしまいます。「キリストに出会った人は自分の環境に閉じ籠ることができない。そんなに小さくなるなんて悲しいことではないか。自らを扇子のように開いて、すべての人のもとへ行かなければならないのだ」[36]。というわけで、間違いを恐れず、能力の不足にも怖気を震わず、逆境にも臆することなく生きる必要を確信できるよう、また、超自然的見方をもって、賢明かつ大胆に、自分が属する社会と職業上の環境に積極的に参加できるよう、自己を形成することが重要です。

自由への愛は、それゆえ、使徒職における自発性と自主性にも表われるものです。自発的な使徒職は、依頼された具体的な使徒職の務めと両立します。「私たちの使徒職は、とりわけ個人的な使徒職である」[37]ことを、常にはっきりと自覚しておくことが大切です。同じことは、ディレクターたちが使徒職活動を推進する際にも当てはまります。「私はあなたがたを決して縛りたくないのです。それとは反対に、あなたがたが大いなる自由をもって行動できるよう努めてきました。あなたがたの使徒職においては、私たちの精神が示すとても広い枠の中で、それぞれの場所、状況、時に配慮して、それぞれの環境にもっとも合致する諸活動を見つけ出すために、イニシァティブを発揮してください」[38]

13.自由への愛は、属人区長とその代理の任にあたる人々が、それぞれの委員会の協力によって行う、司牧上の統治においても見られます。聖ホセマリアの次の言葉をもう一度、感謝を込めて、読み返しましょう。「この自由への精神の帰結のひとつは、オプス・デイにおける形成、そして統治が、信頼を基礎としてするという点です。(…)信頼を基礎としない統治では、何事も達成できません。反対に、人々を尊重して神の子としての真の聖なる自由を発展させるよう、また自らの自由を行使するよう教えるなら、命じ、形成を与えることによって、豊かな実を結ぶことが出来ます。形成を与え、統治するとは、愛することなのです」[39]

尊敬を込めて人々に命じるとは、第一に、統治と霊的指導を混同することなく、良心の内面性(プライバシー)を繊細な心で尊重することです。第二に、この敬う心によって、命令と、命令ではない適切な勧告、助言あるいは勧めとの違いを明確に区別すこと。そして、第三として、三番目であると言っても重要なことですが、人々を信頼して統治するとは、常に出来る限り関係者の意見を考慮するということです。統治に当たる人々のこの態度、他人の意見に耳を傾ける姿勢は、オプス・デイが家族であることを見事に表しています。

さらに、オプス・デイでは、自由に意見を述べ得る経済・政治・神学などの諸問題について、完全な自由を享受しています。これは、感謝すべき経験です。「信仰に属さない事柄について、一人ひとりは、完全な自由と自己の責任において、望むままに考え、行動します。意見の『多様性』は、一人ひとりの自由と責任を尊重する精神から(論理的にも社会学的にも)当然の結果として生まれてくるものであって、オプス・デイではいかなる問題を引き起こすことにはなりません。それどころか、意見の多様性はかえって良い精神の表われなのです」[40]。この多様性を厄介に思うかもしれませんが、愛され育まれるべきものです。自由を愛する人は、様々な分野における他の人々の考え方や振る舞い方に肯定的で愛すべき面を見出すことができます。

実際の統治の仕方に関して、聖ホセマリアは、《団体的あるいは連帯的統治》を定め、常に力を込めて思い出させました。この団体的(連帯的)統治は、オプス・デイの生活に浸透している自由の精神のもう一つの表われです。「様々な時に幾度も繰り返し、また私の生涯を通してこれからもさらに繰り返したいと思っていることがあります。オプス・デイにおいては、あらゆるレベルで団体的統治を要求します。独裁に陥らないためです。これは賢明さの表われです。団体的統治によれば、案件は簡単に研究され、誤りの修正も効果的に行われ、すでに順調に発展している使徒職の活動はよりいっそう効果的に完成へと向かいます」[41]

団体的統治は意思決定をするための単なる原則でも主たる制度でもありません。それは何よりもまず一つの精神です。すなわち、私たちの意見を改善し、変更するために助けとなる光や情報などを他者から受け取ることができ、また、受け取る必要があるという確信に根ざした精神なのです。同時に、そのこと自体が正に、自らの考えを自由に表明することができるよう他者の自由を尊重することです。いやそれ以上に、自由を積極的に奨励することになります。

使徒職における自由の尊重と擁護

14.使徒職は、人々をイエス・キリストと出会わせたい、あるいは、より深い親しさへ導きたいという、誠実な望みから生まれます。「人々に対する私たちの態度は、使徒パウロの叫びとも言える次の言葉に要約できます。『わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように』caritas mea cum omnibus vobis in Christo Iesu! (1コリント16,24)。愛によってあなたがたは、キリストが尊び勝ち取ってくださった (ガラテアア4,31参照) 個々人の自由を尊重し、擁護することによって、この世において平和と喜びの種まき人となることでしょう」[42]

聖ホセマリアは、私たちが証と言葉によって友情と打ち明け話の使徒職をするよう招いています。まず、この使徒職を通して、主に近づけるために付き合っている人々の自由を愛します。「使徒職の活動においても、いやむしろ使徒職の活動においてこそ、強制されたと感じることが決してないようにしたいのです。神は人々が自由に従うことをお望みです。それゆえ、《人々の良心の自由》を尊重しない使徒職は正しいものではありません」[43]

真摯な友情はお互いを誠実な愛情で結びつけます。それは、自由と相互のプライバシーを真に擁護することです。使徒職は友情の付け足しとして行われるものではありません。すでに書き送ったことですが、「使徒職をするというのではなく、私たち自身が使徒なのです!」[44]。友情それ自体が使徒職です。友情そのものが互いに光を与え合う対話です。その対話において互いに視野を広げ合い、様々な計画が生まれます。対話によって良いことを共に喜び、困難において互いに支え合います。神は私たちが喜んでいることをお望みですから、その対話において楽しい時を過ごすことができるのです。

15.周知のように、proselitismo「使徒の獲得」という言葉の本来の意味は、肯定的なものです。それは、福音を広める使命を表わす言葉です[45]。聖ホセマリアは常にそのように理解し、最近になって指摘されているような否定的な意味では使っていませんでした。いずれにせよ、言葉というものは、私たちが望まなくても、しばしば本来の意味とは異なる内容を与えて使われることがあるので、注意すべきです。話の前後関係(や状況)に応じて、この言葉を使うのが適切かどうかを判断してください。あなたがたの意図とは異なった意味で理解される恐れが時としてあるからです。

また、誰かにオプス・デイへの神の呼びかけ(召し出し)を提案する際には、さらに注意深く、すべての人の自由を尊重し擁護する必要があります。その自由とは、望む人と相談する自由、とりわけ、自分の召し出しの可能性を見極め、そして決定する際の完全な自由のことです。聖ホセマリアは、compelle intrare「無理にでも連れて来なさい」(ルカ14,23)という、福音書のたとえ話の強い言葉について解説して、次のように書いています。「すべての人の個人的自由を尊重することは私たちの精神の本質的特徴ですから、使徒の獲得においてあなたたちが実行すべきcompelle intrareは、物理的に無理強いすることではありません。それは、豊かな光と教理、あなたがたの祈りと教えの正しさを証しするあなたがたの仕事という霊的刺激、あなたがたが捧げる多くの犠牲、神の子であるあなたがたが湛える微笑みのことです。神の子であることを自覚しているなら、たとえ人生に苦しみが欠けることがないとしても、穏やかな幸せに満たされます。そして、人々はそれを見て羨むことでしょう。これらのことに、あなたがたの優雅さや親愛の情が加わるなら、それこそcompelle intrareの意味することなのです」[46]。神と共に生きるという目もくらむような美しさを、毅然とした態度で、単純に示しつつ、オプス・デイはこれからも自由な雰囲気の中で成長し、成長して行かなければならないことは明らかです。

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16. 《Veritas liberabit vos: 真理はあなたたちを自由にする》(ヨハネ8,32)。歴史の中に生起する自由への数々の約束は、神と人間についての《真理》に基づく度合いに応じて真実であると言えます。この《真理》とは一人の人格、道であり真理であり生命であるイエスです (ヨハネ14,6参照)。「キリストは二千年後の今日も、真理にもとづく自由を人間にもたらす方です。この自由を制限し縮小するもの、並びにその自由の根源において、人間の魂において、心において、良心において、自由を破壊する恐れのあるものから人間を自由にする方として、キリストは私たちの前に立っておられます」[47]

神は永遠に続く自由を私たちにお与えになりました。このたまものは、この地上で生きている間だけ行使するような、過ぎ去るものではありません。自由は愛と同じく、《決して滅びない》(1コリント13,8) のです。天国においても続きます。私たちの天国への道程は、まさにin libertatem gloriæ filiorum Dei「神の子供たちの栄光に輝く自由」 (ローマ8,21) へと向かう道なのです。天国において、自由は無くならないだけではなく、その完成に至ります。それは神の愛を抱くことです。「天では偉大な愛があなたを待っている。裏切りも欺きもない、愛そのもの、美そのもの、偉大さそのもの、知恵そのもの…。しかも、うんざりさせない。すなわち、飽かせることなく満足させ、いくらでも欲しくなる愛が待っている」[48]。私たちが忠実であるなら、神の慈しみによって、私たちは天国において愛の充満である自由を満喫することでしょう。

心を込めて祝福を送ります

あなたがたのパドレ

フェルナンド

ローマ、2018年1月9日、聖ホセマリアの生誕記念日


[1] 聖ホセマリア、手紙1954年5月31日22番。

[2] フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』2013年11月24日170番。

[3] 聖ホセマリア、手紙1965年10月24日3番。

[4] ベネディクト16世、回勅『希望による救い』2007年11月30日24番。

[5] 同上。

[6] 聖ホセマリア、『知識の香』129番。

[7] 聖ホセマリア、『神の朋友』25番。

[8] 聖ホセマリア、『十字架の道行』第10留。

[9] 『神の朋友』26番。

[10] 同上。

[11] 聖アウグスチヌス、『告白』III, 6, 11参照。

[12] 『神の朋友』27番。

[13] フランシスコ、説教、2014年8月15日。

[14] ベネディクト16世、回勅『真理に根ざした愛』2009年6月29日68番。

[15] 聖アウグスチヌス、『ヨハネによる福音書講解』VII, 8。

[16] 『神の朋友』30番。

[17] 聖トマス・アクィナス、『命題集注解』In III Sent., d. 29, q. un., a. 8, qla. 3 s.c. 1.

[18] 『知識の香』17番。

[19] 聖ホセマリア、手紙1954年5月31日22番。

[20] フランシスコ、説教2013年5月31日。

[21] 聖ホセマリア、手紙1947年12月29日106番。

[22] 聖ホセマリア、ある説教でのメモ1963年4月28日。

[23] 聖アウグスチヌス、『告白』XIII, 9, 10。

[24] 同。

[25] 『神の朋友』31番。

[26] 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『真理の輝き』1993年8月6日19番。

[27] ベネディクト16世、お告げの祈りでの演説2007年7月1日。

[28] ハビエル・エチェバリーア、司牧書簡1997年2月14日15番。

[29] 『知識の香』17番。

[30] 『神の朋友』25番。

[31] 聖ホセマリア、手紙1951年9月14日38番。

[32] 聖ホセマリア、手紙1956年8月8日38番。

[33] 同。

[34] 聖ホセマリア、手紙1957年9月29日70番。

[35] 聖ホセマリア、手紙1945年2月2日19番。

[36] 聖ホセマリア、『拓』193番。

[37] 聖ホセマリア、手紙1939年10月2日10番。

[38] 聖ホセマリア、手紙1942年10月24日46番。

[39] 聖ホセマリア、手紙1945年5月6日39番。

[40] 聖ホセマリア、『会見』98番。(邦訳は『女性―ホセマリア・エスクリバー師との会見―』62頁)。

[41] 聖ホセマリア、手紙1951年12月24日5番。

[42] 聖ホセマリア、手紙1933年7月16日3番。

[43] 聖ホセマリア、手紙1932年1月9日66番。

[44] 司牧書簡2017年2月14日9番。

[45] 教理省、『福音宣教のいくつかの側面に関する教理的覚え書』2007年12月3日12番と49番参照。

[46] 聖ホセマリア、手紙1942年10月24日9番。

[47] 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『人間の贖い主』1979年3月4日12番。

[48] 聖ホセマリア、『鍛』995。


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