仕事の聖化とは(I)

2023年2月、ローマにて行われた属人区長フェルナンド・オカリス師による仕事の聖化についてのクラスの内容を連載します。

私たちの聖化の蝶番

創立者が仕事のことを「私たちの聖化の蝶番(ちょうつがい)」と言ったことを思い出します。すべてはその周りを回転するからです。そして仕事と共に、ご聖体(それはキリスト者の生活の中心であり根源です)と、神との親子関係は、私たちの霊性のすべてを要約する要素です。仕事は聖化され得る、そして聖化をもたらす現実です。自然のレベルにおいて、仕事は価値のある現実、そしてすべての人を包括する現実です(それは望もうが望むまいが人は働くからです。仕事をしないよう努める人や沢山休みたい人でさえ、結局働きます)。それに加え神の恵みによって、仕事は(特に私たちにとって)もっと大きな意味を持ちます。

知識の香において創立者は言います:「キリストが仕事に従事されたときから、私たちにとって、仕事は贖われたものであると同時に、救いをもたらすものとなったのです。仕事は単に人が生活を営む場であるだけでなく、聖化の手段であり、道であり、聖化され得ると共に聖化をもたらす現実なのです」(『知識の香』47番)。私たちはこの言葉をよく知っており、また黙想し使徒職的活動において説明したことでしょう。そしてこの言葉は(神との対話を構成するすべての事柄と同様に)、私たちがそれをますます深く理解し、そして何よりも、私たちがそれをさらに良く生きるためのものです。 

この聖ホセマリアの言葉のいくつかの側面に焦点を当てましょう。1つ目の側面(それは明白で主要な側面です)は、人は仕事をしている間に聖化できるというだけでなく、仕事自体が聖化できるということです。一見この区別は重要でないように見えますが、実のところ重要です。仕事の聖化とは、仕事という人間的現実に何かを付け加えるということではないということです。例えば、この作業をする間、沢山の射祷を唱えるといった形です。射祷を唱えるのは良いことですが、そういうことではありません。仕事の聖化とは、私の仕事の実践において私自身を聖化するということです。つまり、働くという行為自体が私を聖化するということです。

厳密に言えば、仕事の結果は聖なるものではありません。机はどんなに良く作られていても、机自体としては聖なるものではありません。しかし机を作るという行為は聖なるものになり得ます。類似的な意味で、仕事の結果は聖化されたということができます。それは付加価値が与えられたという意味においてです。しかし、根本的に、神の恵みによって聖化することができるのは、働くという人間の行為です。行為が聖化されることによって、行為を実現する人自身が聖化されます。ですから「仕事の聖化という行為」と「仕事において自身を聖化する」ということは繋がっています。

3つ目の側面は、他者を仕事によって聖化するという側面です。それは、聖化された現実が、聖徒の交わりを通して、全世界に影響を与えることができるいう意味においてです。またそれを使徒職的意向のために捧げることができるという意味においてです。つまりそれは他者を聖化するための道具になるということです。

ですから、仕事の聖化とは、働くという行為を聖化するということです。そしてそれは人の行為です。それゆえ行為が聖化されれば、人自身も聖化されます。そしてこのことにより、聖徒の交わりを通して、他者を聖化することが可能です。単に仕事を捧げることによって、すでに他者の聖化に影響を与えています。

これらの3つの側面の中で、どの側面が根本にあるでしょうか?もちろん、それは働くという行為を聖化することです。なぜなら、私が行為を聖化するとき、私は自分自身を聖化するからです。これが他の2つの側面の根本にあります:私が働くという行為を聖化すればするほど、私は自分自身を聖化し、他者を聖化することができます。