聖ホセマリアの生涯-42

内戦でスペインの教会は甚大な被害を受けましが、戦後に凄まじい勢いで再生します。聖ホセマリアは数多くの黙想会の指導を引き受けます。

過去の記事はこちらから

内戦のために、最初のオプス・デイのセンターだったフェラス通りの学生寮は破壊され使えなくなりました。一日も早く学生寮を再開したいと願っていた神父は、再びお金の問題に頭を痛めながら、なんとか同じマドリードのヘンネル通りのアパートに新しい部屋を見つけ、1939年7月に引っ越ししました。善意の人たちの助けを借りて、ひと夏をかけてそこを学生寮と家族が住める家に改装しました。新学年が近づくにつれ入寮の申し込みが殺到するのを見て、寮のため別の階にいくらかの部屋を手に入れました。

内戦でスペインの教会は甚大な被害を受けましが、戦後に凄まじい勢いで再生します。神と教会の奉仕のために人生を捧げようと、司祭や修道者になろうとする多くの若者が現れました。神学校はどこも満員となり、色んな修道会も沢山の志願者に恵まれます。内戦中はできなかった黙想会が、司祭や修道者だけでなく信徒のために企画されました。そして、多くの司教が自分の教区の司祭のために、聖ホセマリアを説教師として招こうとしたのです。

教会のために働くことを喜びとし、また司祭の養成が教会にどれほど重要なものかを理解していた聖ホセマリアは、これらの依頼をできる限り受け、心を込めて説教をし、また参加者一人ひとりと個人的に話すよう努めました。1939年の夏から1942年の末まで司祭のための7日間の黙想会を20回しています。参加者の中には、神父の説教のメモを大切に保存した人もいて、そのおかげで神父の話の概要がわかります。

このほか、修道者や信徒の黙想会の指導も引き受け、またオプス・デイの精神に惹かれた人たちに対しても黙想会を開きました。一方、新しい学生寮にも大勢の学生が勉強をしたり聖ホセマリアから霊的指導を受けたりするために来るようになりました。その結果、オプス・デイのメンバーになる若者も増え、彼らの養成も重要な仕事になりました。再び休む暇もない忙しい毎日が始まったのです。

黙想会の指導のため頻繁にスペイン各地に出向いて行った結果、過労から来る疲れや病気だけでなく、オプス・デイの統治の仕事に手が回らないという問題も出てきました。

尾崎明夫