黙想の祈り:年間第4主日(B年)

黙想のテーマ:「イエスの言葉を聞いた人々の驚き」「主を信じ、恐れを乗り越える」「心配事を活用して祈る」

イエスの言葉を聞いた人々の驚き

主を信じ、恐れを乗り越える

心配事を活用して祈る


主日の福音書は、イエスが安息日にカファルナウムの会堂で教えている場面を描きます。「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マルコ1・22)。イエスの言葉はカファルナウムの人々を驚かせます。「そのことばは、普段聞いていることばとは違っているからです。耳になじみのない響きです。事実、律法学者は教えますが、しかるべき権威をもってはいません。ところがイエスは、威光をもって教えます。それどころか、イエスは権威ある者として教えることで、ただ伝統に沿って教えるだけの並みの人としてではなく、神から遣わされた者としてご自分をお示しになります。イエスには完全な権威があります。当時の学者たちとは全く異なる教え方をしたからです」[1]。第一朗読で読まれるモーゼの古い預言が実現しました:「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」(申命記18・15)。

主の教えは新しいだけでなく、救いを望む人々の心に応えるものでした。イエスの言葉には業が伴います:「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(マルコ1・28)。イエスは救いについて話すだけでなく、救いの業を行います。今日も同じようにイエスは教会を通して働いています:「イエスは、ことばと行いにおいて力のある、わたしたちの師なるかたです。イエスは、しばしば闇に覆われるわたしたちの人生の道を照らす光を、すべての人に伝えます。また難局や試練、誘惑に打ち勝つのに必要な力をもわたしたちに授けてくださいます。わたしたちにとって、これほど力のある、これほどまでに優しい神を知る恵みがどれだけすばらしいものか、一緒に考えましょう。わたしたちに、とくにわたしたちが困っているときに、道を示し心を砕いてくださるかた、先生であり、友です」[2]


「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない(…)心を頑にしてはならない」(詩編95・7ー8)。神は毎日私たちに語りかけます。しかし私たちは自分のうちに主の言葉に対して反発する〈何か〉があることを知っています。それは、主の言葉が私たちの内に根を張り、芽生え、実りをもたらすのを妨害します。第一朗読はその私たちの心にある〈何か〉について語ります。それは恐れです。民は「ホレブで、集会の日に、『二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください』」(申命記18・15ー16)と求めました。

主の教えを耳にしたとき、ある種の不安を感じることは、普通のことかもしれません。私たちは主が示される道の素晴らしさとその先にあるものへの憧れを感じる一方で、自身の弱さを感じ、そのような道を歩むこと、またその先にあるものに到達することができないのではないかと感じます。しかし私たちは、主がすでにその道を歩まれ、私たちの歩みにおいて主が常に共にいてくれることを知っています。イエスこそ、モーゼが預言した私たちの内の一人、私たちの同胞です(申命記18・15参照)。このイエスは「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」方です。「 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4・15ー16)。

聖ホセマリアはこの恐れを主を信じることによって乗り越えるよう励まします。主が私たちに示される道とその先にあるものは、私たちが自身の力で歩むことができるいかなる〈安全な道〉よりも、有意義であり、豊かであり、私たちを幸せにするものです。「恐れずに神のみ旨を受け入れ、信仰が教え要求するところに一致した生活を築き上げる固い決心を立てましょう。戦いや、悩み、苦しみがあることは確かです。しかし、生きた信仰を持っているなら決して不幸だとは思わないでしょう。悲しみや中傷の的になるようなことがあったとしても幸福だと感じるようになり、人々を愛し、超自然的な喜びを与えることができることでしょう」[3]


第二朗読における聖パウロの言葉は、私たちが神に耳を傾けることを邪魔しうる別の障害について思い起こさせます。それは〈思い煩い〉です。

日々の出来事が、私たちの内的世界をざわつかせ、私たちの考えや感情を占有してしまうことがあります。そのことにより、私たちは「神がそれらの出来事を通して私たちに何を言いたいのか」ということを探すのを忘れ、「自分がどのようにそれらの問題と向き合うか」ということばかり考えてしまうことがあります。そのような時は、まさにそれらの心配事を祈りの題材にすることができます。気がかりな事についてイエスに話し、主の恵みを願い、神の御手に委ねます。場合によっては、それに加えて、私たちは心配事の内に、私たちの使命を発見することができます。思い煩う心の背後には、私たちの誰かに対する思いがあることが多いからです。その場合、私たちは祈りの中でその人のことを思い、どうしたらイエスのようにその人に奉仕できるのか考えることができます。そのようにして、主の助けによって、私たちはその人との絆を強めることができます。このような形で私たちは、神と交わることの障害となっていた心配事を、神と対話するための手段に変え、よりキリスト者らしく他者に奉仕するための原動力に変えることができます。

時には、思い煩うのをやめる努力をする必要もあるかもしれません。それは、あまり重要でないことについて気がかりになっている場合や、同じ事柄について何度も何度も繰り返し考えてしまう場合などです。意識を神との対話に向けるための努力[4]、そしてイエスに耳を傾けることは、私たちの心を心配事をはじめとした物事に対する過剰な執着から開放し自由にします。「あるとき、主の声が響きます。その日に幸いとされるのは、本当に重要なことに目を向け、よく働いているところを主がご覧になる、しもべたちです。彼らは心に忍び込むどんな誘惑にも負けずに、よい行いをし、自分の責務を果たしながら、正しい道を歩もうとします。散漫とは、とりとめなく思い続けることでもあります。アビラの聖テレジアは、祈りの中でとめどもなく続くそうした思いを、『家の中の奇人』と呼びました。まるで、あちこちに皆さんを連れていく奇人のようです。思い惑うのをやめて、そうした心の動きを、注意深く檻に閉じ込めなければなりません」[5]。聖母は神の言葉を恐れずに受け入れ、それを自分の心に響かせました。マリア様に、そのような心のあり方を教えてもらいましょう。


[1] フランシスコ、「お告げの祈り」でのことば、2018年1月28日。

[2] 同。

[3] 聖ホセマリア『知識の香』97番。

[4] カトリック教会のカテキズム、2729番参照。

[5] 教皇フランシスコ、一般謁見演説、2021年5月19日。