年間第11週日曜日・B年 89 からし種

― 主は、小さなものをお使いになってこの世で人々の中で働かれる。― 使徒職活動で困難なことがあっても落胆してはならない。主は私たちの日常生活の場を改善しようと私たちを頼られる。 ― 神は私たちの砦。イエス・キリストの教えを伝える私たちを邪魔する、偽りの世間体を追い払う努力。

年間第11週日曜日・B年

89 からし種

― 主は、小さなものをお使いになってこの世で人々の中で働かれる。

― 使徒職活動で困難なことがあっても落胆してはならない。主は私たちの日常生活の場を改善しようと私たちを頼られる。

― 神は私たちの砦。イエス・キリストの教えを伝える私たちを邪魔する、偽りの世間体を追い払う努力。

89.1 神は、霊魂に働きかけるために、小さなことを利用される

「主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、実行する」。今日のミサの第1朗読からとられた、預言者エゼキエルの美しい言葉は、世の中や霊魂の内に働きかけるために、神がどのように小さなことを利用されるか、思い出させてくれます。イエスはこれと同じ事を教えておられます。「神の国は、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」

主は、福音を伝えるために数人の人々を選ばれました。大部分は学問がなく、欠点だらけの、財産のない貧しい漁師でした。「神は力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」。純粋に人間的な見方をすれば、この人たちがそれほどの短い期間に当時知られていた世界全体に、多くの妨げと反対に打ち勝ちながら、どのようにキリストの教えを広めることができたか説明することはできません。聖ヨハネ・クリゾストモは、からし種のたとえの中でこう記しています。イエスは弟子たちに、どんなことがあっても福音宣教は行うことができるという信仰と確信を持つように勧められています

私たちもまた、社会の中で神から与えられた仕事においてはからし種のようなものです。私たちの持っている手段、つまり才能と、しなければならない使徒職の重大さとの間の不釣り合いを忘れるべきではありません。しかし、常に神の助けに頼ることができることも忘れるべきではありません。困難が生じれば、私たちは自分の価値のなさにもっと気づくでしょう。このお陰で、私たちは、主に、そして成し遂げようとしている仕事の超自然的特徴に、もっと信頼をもつようになるはずです。「戦いと困難のとき、おそらく〈善良な人々〉が無数の障害物を置いてあなたの道の邪魔をするときには、使徒としての心をあげ、からし種とパン種の話をなさるイエスに耳を傾けなさい。そして使徒たちのように、『たとえ話の意味を説明してください』とお願いしなさい。すると、やがて手に入れる勝利を眺めて喜びに浸(ひた)るだろう。今始めたばかりの使徒職という木に宿る空の鳥と、膨(ふく)れあがった練(ね)り粉全体が見えることだろう」

私たちの無力さと恩恵の力を見失わなければ、私たちは常に強く、神が要求されることに忠実でいることでしょう。もし私たちがイエスから目を逸らせば、落胆したり、悲観的になったり、すぐに仕事を放棄するでしょう。神と一緒なら何でもできます。

89.2 困難が私たちを落胆させる事はありません

使徒たちと初代キリスト信者は、まさにその根底から脅しをかけられた社会に直面しました。その社会は、理想を持つのがほぼ不可能に近い社会です。聖パウロは、ロ一マ社会と異教世界全般を、理性の自然の光が多くの面で暗くなり、人間の尊厳を理解することができなくなっていると述べています。「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です」

社会の中から働きかけることによって、キリスト信者は、社会を変えました。そこに種が落ち、それから世の中全体に広まります。それは小さい種であるけれども、神の力を伝えました。なぜなら、その種は、キリストのものだからです。ロ一マに来た初代キリスト信者は、私たちと少しも違っていませんでした。ただ神の助けによって、他のすべての人と同じ仕事を仲良く協力して果たしながら、彼らと同じ問題に直面し、神の掟に直接背かない限り、同じ掟に従い、効果的な使徒職をすることができました。エルサレム、アンティオキア、ロ一マの最初のキリスト信者は、実に、広大な畑の中で見かけ上は見失われた小さなからし種だったのでした。

世の中は、時には、聖パウロが言い表したもののように見えますが、私たちは、障害に出会って、意気消沈しないようにしなければなりません。神は、私たちが生活し働いている所を変えるよう、私たちを当てにしておられます。私たちができることは、からし種のように小さく、たいして重要でないように見えるかも知れないけれども、できることを行うことを怠らないようにしましょう。神は私たちの熱意をさらに大きく燃え上がらせ、私たちの祈りと犠牲は実を結ぶでしょう。私たちにできる〈僅かなこと〉は、同僚や友人が特別な本を読むように助言すること、顧客、通行人、仕事仲間に親切であること、必要な時に援助の手を差し伸べること、病気の友人や近所の子どもたちのために祈ること、そして、彼らが私たちのために祈るよう頼むこと、告解に行くように誰かを助けることかも知れません。そして、常に朗らかで、正直な生活を実行することです。すべての人が、思慮深く、落ち着いて、勇敢な使徒であるべきです。私たちが、神に一致し、安楽を好む生活を拒み、生温さと落胆に打ち勝つならできることです。「私たちが生きるように呼ばれたこの時代は、熱意と熱心さを常に持っているよう求められています。戦いさえすればそうできるでしょう。不屈の努力をする人だけが、世の中に平和、神の平和をもたらすのに相応しいのです」

89.3 偽りの世間体に打ち勝つ必要性

多くの場合、職業や専門職の仲間や近隣の人たちによって行われた福音の告知は、多くの家族全体にとって、生き方と永遠の命について根本的な変革をもたらしました。しかし、別の人々にとっては、つまずきであり愚かなことでした。聖パウロはローマの信者に言いました。「わたしは、福音を恥じとしません。福音は(…)信じるすべての人にとって救いをもたらす神の力だからです」

聖ヨハネ・クリゾストモがこう評しています。「誰かがあなたに近づき、『十字架につけられた人をあがめますか?』と尋ねるなら、恥ずかしさに赤面してうつむかず、非難を栄光の機会として利用し、あなたの目と顔の表情が恥じていることを表さないようにしなさい。彼らが再び耳もとで『何! 十字架につけられた人をあがめるのか?』とささやくなら、『はい、その人をあがめます!』と答えなさい。私は、十字架の力で悪魔を黙らせ、あらゆる迷信を追い出した、釘づけにされた神をあがめ賛美します。私にとって十字架は、神の愛と優しさの戦利品だからです」10。立派な答えです。私たち自身もこの答えを使うことができます。

初代キリスト信者から、人間的な尊敬を抑圧しないこと、他の人々が言うことを恐れないことを学ばなければなりません。むしろ、私たちはどこにいても、私たちが見出した宝、探し求めて突きとめた高価な真珠をよく意識して、キリストを知ってもらうことを案じなければいけません12。 人間的な尊敬に対する戦いは決してなくなりません。真剣にキリストにしっかりと従おうとし、信仰に一致して生きようとしている時に、頻繁に逆境に出合うからです。キリスト信者と称する人々には、信仰を証すべき時にあまり勇気を示さない人たちが大勢います。彼らは、キリストの判断よりも他の人々の意見をずっと気にしているようです。態度を明らかにせずに、流れのままに流されるのに甘んじているのです。この態度は、神への愛に深い確信が持てず、ほとんど愛を持っていないことを表面的に示しています。当然のこととして、自分の生活の各瞬間、あらゆる状況において、信仰に生きたいと望むキリスト信者らしく振舞うことが難しくなるでしょう。しかし、このような時は、他の人がどう思うかに頓着せず、公の意見に振り回されずに、キリストに私たちの愛を示す素晴らしい機会でもあります。神は臆病な霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださったのです。ですから、主を証しすることを恥じてはならないと、聖パウロはテモテ人に言っています13

これは、常に、福音化の仕事において、私たちの先駆者の態度でした。また、それ以前にも、ユダ、マカバイの模範があります。イスラエルの多くの者たちが、偶像に生贄を捧げ、安息日を汚した時14、その父、マタティアの模範に従い、彼とその兄弟たちは、その非道な行為に反逆して、神の誉れのもと、喜んでイスラエルのために戦いました15。 ユダ自身が言ったように、「戦いの勝利は兵士の数の多さによるのではなく、ただ、天の力によるのみだ」16。このことは、初代の教会から現代に至るまで、常に神についての事柄において当てはまります。神はご自分の仕事を行われるのに弱い者を使われます。私たちは、神の助けに欠くことはないでしょう。神は、私たちができる小さなことを、善のための大きな力に変えるのです。

キリストの十字架から、私たちが必要とする力と勇気が得られます。マリアを見ましょう。喚(わめ)き声にもひるまず、臆病で無名の群衆が勢いづいてキリストを手ひどく扱っても、贖い主に付き従って行かれる。

「〈信実なる処女(おとめ)〉と、力一杯、お呼びしなさい。忠実な処女!と叫び、神の友になる決心をした私たちが、嘘偽りなく、常に神の友でいることのできるよう助けをお願いしなさい」17

エゼキエル17:22-24

マルコ4:31-32

1コリント1:27

聖ヨハネ・クリゾストモ,Homilieson St Matthrw’s Gpspel,46

聖ホセマリア・エスクリバー、『道』,695

6ローマ、1,24-31

7.福者アルバロ・ポルティ一リョ,Letter, 1976年12月8日 の手紙

1コリント1:23

ローマ1:16

10 聖ヨハネ・クリゾストモ Homilies on the Epistle to the Romans,2

12 マタイ13:45-46 参照

13 2テモテ1:7-8

14 1マカバイ1:43

15 1マカバイ3:2

16 1マカバイ3:18-19

17 ホセマリア・エスクリバー, 『拓』, 51