年間第10週・水曜日 84 現行的な恩恵

― 善行のためには恩恵が必要。 ― 現行的な恩恵。 ― 応答。

年間第10週・水曜日

84 現行的な恩恵

― 善行のためには恩恵が必要。

― 現行的な恩恵。

― 応答。

84.1 善を行うためには、恩恵を必要とする

原罪のために、人間の本性は、神にいただいていた聖性の状態を失いました。結果として、所有していた高潔さと内的秩序を人間は奪われました。最初の罪を犯した後、人間は道徳律を果たすための意志の力が弱くなりました。この世に罪が姿を現した後、善を行うことが難しくなったのです。「これこそ人間が自分の中で分裂していることの説明です。こうして、人間の全生活は、個人的にも団体としても、善と悪、光と闇の間における劇的な戦いとして現れます」

超自然的生命を目指す行いには、神の助けが絶対に必要です。「独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。私たちの資格は神から与えられたものです」。そのうえ、原罪のためにその助けはさらに必要になります。すなわち、「誰も自分自身によって、自分の力で罪から解放され、自分の力で今の自分以上に自らを高めることも、自分の弱さや孤独や奴隷の状態から完全に解放されることもありません」。すべての人は模範、教師、医師、解放者、救い主、生命の与え主であるキリストを必要としています。 キリストがいなければ、私たちは何もすることができません。キリストと共に、すべてを行うことができます。

人間の本質は、原罪によって堕落してはいないけれども、洗礼の後でも、悪に向かう傾きを経験します。善を行うことは難しいことがわかります。それは、それ自体には罪はなく、罪に由来し、私たちを罪に向けさせる、いわゆる、情欲(fomes peccati)です。 全く抑圧されてはいないけれども、自由自体は弱められているのです。

私たちは、この教えの光に照らされて、聖性と使徒職の実りである良い働きは、第一に、神のものであることが理解できます。二番目に、実に二番目に、常に弱く、不釣合いな道具としての私たちが、恩恵に一致した結果です。神は、うぬぼれる危険を避けられるように、私たちの救いがたい惨めな状態を常に心に留めるように求めておられます。聖アルフォンス・リゴ一リが度々言うように、高慢に支配された人は、地上的に価値のあるものは何も盗まず、そのかわりに、神の栄光を盗むので、他の泥棒とは比べものにならないほど悪い泥棒です。使徒によると、私たちは、実際自分では良い業は何もできません。良いことを考えることすらできないのです(2コリント3・5参照)。 ですから、私たちが何か良いことを行おうとする時は、自分から主にこう話しかけましょう。「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」(歴代誌上29・14)。 良い結果が手元に入った時はいつでも、もう一度神にそれを捧げなければなりません。なぜなら悪いものやどこか不完全なものだけが私たちのものであるとわかっていますから。美しいものと善いものは神のものですから。

84.2 助力の恩恵

福音の出来事から、個々の男女とキリストとの個人的な出会いは、ユニ一クで、一回限りのことであることがわかります。ニコデモ、ザアカイ、姦通の現場で捕えられた女性、良い泥棒、使徒たちなど。時が来れば人々が神に心を開くことができるよう、主は少しずつ人々の霊魂を準備なさることがわかります。そのユニ一クで決定的な出会いの結果として、神の恩恵は彼らと共にあり、その霊魂内で新たな改心、新たな進歩を求め、実現させるためにお助けになります。福音書で出会う他の人々は完全にどころか部分的にさえ、神の光に応えません。私たちのキリストとの出会いもまた、ユニ一クで、二つとないのです。それは、ガリラヤで、ゲネサレト湖の傍で、エルサレムで、サマリアを通って旅した時のいくつかの小さな町で、キリストに出会った人々の出会いに似ています。イエスは、今も同じように私たちの生活の中で現存されています。神の善は、神に私たちが近づくことを助けてくれる神の霊感を受け入れることができるようにさせてくれます。神は、困難な仕事を完全に仕上げ、特別の犠牲を受け入れたり成し遂げたり、または信仰の行為をすることを助けてくださいます。神は、困難だと思うことを神の愛のために克服するよう、私たちを助けてくださいます。これは、それぞれの霊魂に固有の方法で影響を与える、神からの自由でその時限りの恩恵、助力の恩恵です。何とたくさんの現行的な恩恵を私たちは毎日受けているでしょう! 聖別された方、主の静かで最も効果的な行いに自分の霊魂の扉を閉ざさない限り、ますます多くの恩恵を受けるでしょう!

恩恵を通して、神は、それぞれの男女に、善を行いやすくされるだけでなく、善を行うことが本当にできるようにもしてくださいます。掟を守り、超自然的な行いをすることは、私たち被造物にとって自分の力だけでは全く不可能なのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」。主は、はっきりと言われました。また、聖パウロは、救いは「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるもの」、変わることのない無限の慈しみによると教えています。私たちは、この教えをどれほどよく体験してきていることでしょう!

聖霊は、真理を理解することができるように、私たちを照らしてくださいます。聖霊は私たちを励まし、良い行いを優先するようにさせ、行動している間もいつも共にいて完全に実践するよう助けてくださいます。「あなたがたの内に働いて、み心のままに望ませ、行わせているのは神であるからです」。にもかかわらず、恩恵が私たちの自由を奪うわけではありません。決意するのは私たちであり、行動するのは私たち自身だからです。

常に、自分ではなく神に頼る実際的な知恵、私たちの知性の鋭敏さや私たち自身の才能ではなく、神の内に強さを見出す実際的な知恵をくださるように願わなければなりません。望みを実行に移す時、愛のこもった主のこの警告に頻繁に耳を傾けなければなりません。「わたしを離れて、あなたがたは何もできない」。超自然的生活においては、私たちは常に行うすべてのことに対して、大人の助言を必要とする子どもの従順さと注意力をもって戦う初心者です。聖フランシスコ・サレジオは、神の人間に対する愛の濃やかさを説明するのにこのたとえを使っています。母親が、子どもに歩くことを教えている時、必要な時には、助け、支えます。最も危険のない平らな土地で、数歩、歩ませます。手をとり、支え、腕に抱き上げます。同じような方法で、主は、子どもたちによって踏み出される歩みに、絶えず注意を払われています10。 これは、私たちが、神のみ前に何者であるかということ - 歩くことをまだ教わっていない小さな子どものようだということなのです。

神に応え、善意を示し、何度も何度もやり始めるのが、私たちの責任です。霊的指導に誠実であることによって、また具体的な良心の特別糾明(現在、戦っている点)を持つことで実行することができます。私たちの日々は、大抵の場合、助けを求め、助けに応え、感謝する、に要約できるでしょう。

84.3 私たちの対応

神は、一人ひとりの霊魂に、限りない敬意を持って接していかれます。ですから、神は、私たちの意志を強制しないので、人間は、恩恵に抵抗し、神の望みを台無しにする方を好むことにもなりえます。実際に、私たちは一日中、多分、小さなことで神にNOと言っているのです。私たちは、神が求めることにYES、自分の利己主義、高慢と怠慢の衝動にNOと何度も言わなければなりません。

神の恩恵に対する自由な応えは、私たちの考えに、言葉に、行いに生じなければなりません11。 信仰だけでは、私たちは主が望まれるほど十分に協力するのは不十分です。神は、私たちに、個人的な努力、行い、進取の気性、効果的な望みを求めておられます。主は、十字架上での死ゆえに、限りない恩恵の宝に値する方ですが、この恩恵は、一度に私たちに与えられるわけではなく、多かれ少なかれ、その豊かさは私たちがどのようにその恩恵に一致するかにかかっています。私たちが、すべてのことで、主にYESと言う心積もりがある時、ひとつなぎになった真実の恩恵を自分の方に引き寄せます12。 日々の恩恵のささやかなほのめかしに忠実である時、朝、英雄的瞬間を生き、初めに神に思いを向ける時、ミサ聖祭のために十分準備する時、本当に大切なものから引き離そうとする注意散漫を拒むように戦う時、仕事を捧げる時、私たちの心は、恩恵、つまり神への愛で、溢れるばかりに満たされます。

神のためにできることをすべて行う者で、神に忘れられ愛されていない人は誰もいません。神は、すべての人に、自らの過失によるのではない限り、教会の外部にいる人々にさえ、助けの手を差し伸べます13。 それだけでなく、限りなく慈しみ深く、限りなく忍耐強い神は、相続した財産を持って逃げ出し、今は惨めな状態にいる放蕩息子を、何度も何度も家に戻るよう出向えにいかれます。神は、もう一度父の家に戻る道へと旅立つことができるように、彼に対して愛を注ぎ、心を動かしておられます。そして、与えられた恩恵に一致している人に出会えば、神は恩恵に次ぐ恩恵をその人に山のようにお与えになり、力づけられ、さらにもっと高く進歩するよう励まされます。

私たちの個人的な祈りにおいて、一致することが難しいと思われるなら、次の忠告に従いましょう。聖母に話しかけ、信頼を込めて申し上げなさい。「聖母よ、神が心に注がれた理想を実現させるには、高く、高く、非常に高くまで飛び上がらなければなりません」14。私たちは、常に、マリアの傍に、最も忠実な配偶者であるヨセフを見出します。彼は、神が、天使を通して彼に示されたことを即座に理解し、そのとおり完全に実行する術を心得ていました。私たちは、一日中、ヨセフに向かい、働く日々の生活の中で、細々としたことをしている只中で、時には非常に小さい聖霊の声を、はっきりと聞くように助けてくださるように、この超自然的な勧めを実践する剛毅を願うことができます。

第2バチカン公会議,現代世界憲章,13 参照

Firs Reading of the Mass, Year I, 2コリント3:5

St Irenaeus, Against Heresies, 3,25,3

第2バチカン公会議,Ad gentes,8 参照

トレント公会議,Decree, On original sin,5

聖アルフォンス・リゴ一リ,A Jungle of predictable matters,2,6

ヨハネ15:5

ロ一マ,9:16

フィリピ2:13

10 聖フランシスコ・サレジオ,Treatise on the Love of God,3,4

11 第2バチカン公会議,教会憲章,14 参照

12 PiusXII, Mystici Corporis, 29June 1943 参照

13 第2バチカン公会議,教会憲章,16 参照

14 聖ホセマリア・エスクリバー,『鍛』,994 参照