年間第10週・土曜日 87 証しを伴う言葉の価値

― 主は、与えられた言葉の価値を高める。誓いが不要なら、言葉で満足すべき。― あらゆる機会、状況において真理を愛する。― 私たちの約束に対する忠実と誠実さ。

年間第10週・土曜日

87 証しを伴う言葉の価値

― 主は、与えられた言葉の価値を高める。誓いが不要なら、言葉で満足すべき。

― あらゆる機会、状況において真理を愛する。

― 私たちの約束に対する忠実と誠実さ。

87.1 イエスは約束を評価なさる。言葉を守るなら、誓いを立てる必要はない

イエスの時代には、軽々しく頻繁に誓いが立てられ、誓いの不履行を正当化するために詭弁も用いられ、誓いが乱用されていました。イエスは、この習慣に反対され、ご自分の言葉の神的権威を示すために使った「しかし、わたしはあなたに言う」という決まり文句で、偽りはもちろん、自分の言葉に重みを与えるために神を証人にすることをも禁じました。聖マタイの今日のミサの福音はイエスの言葉を思い出させます。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」

誓いを立てること、即ち、私たちが言っていることの真実性を証明するため、あるいは約束の保証人として神に訴えることは、正当であり、時には、状況が許せば必要でさえあります。それは、信仰の徳の行いであり、神の名誉と栄光を高めます。預言者エレミヤは、「真実と公平と正義をもって『主は生きておられる』と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする」と、誓いを立てることは、神を喜ばせると教えています。私たちが話すことは、軽々しく性急ではなく、分別を持って話される真実でなければならず、正しく良いものに関連していなければなりません。

私たちは、忠誠心と誠実さの根拠である真理を常にすべてに求め、約束の値打ちを知り、大切にする人として知られていますから、どうしても必要な場合を除いて、キリスト者である正直な人の言葉だけで十分なはずです。私たちは、キリストに、家族や友人に、自分から引き受けた責任に、私たちが働いている会社に対して、誠実で忠実でありたいと願っています。

生涯の殆どの状況において、約束をすることは、私たちが誠実であり忠実であることの保証になるでしょう。しかし、そのためには、私たちは喜んで間違いを正し、責任を果たして、小さなことに誠実でなければなりません。家族の一員、友だち、仕事仲間は、私たちが誠実で忠実であることを知っていますか? 彼らは、私たちが善を行い、悪を避けるために冗談でも嘘を言わないことを知っていますか?

87.2 常に、あらゆる状況において真理を愛しなさい

偽善と嘘は、キリストが強く攻撃された二つの悪徳です。誠実は最もほめられる徳の一つです。ナタナエルは言いました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」。イエスはご自身が真理です。 一方、悪魔は偽り者であり、その父だからである。 先生(師)に従う人は、正直かつ誠実で、常に偽りを避け、人と神との関係においては真実を大切にしなければなりません。

真理は、言葉と模範によって学ばれます。イエスは御父の証人です。十二使徒たち、初代キリスト信者と現代の私たちは、生きた証拠を必要としているこの世のキリストの証人です。しかし、私たちの生活が真理への真実の愛に基づいていないなら、私たちの友だちや同僚が、私たちが彼らに伝えたいと望んでいる真理をどうして信じるでしょうか? 私たちキリスト信者は少しずつ、キリストと共に、真理の証人であることを証明するために、この世に来たと言うことができなければなりません。献身と犠牲を避けるため、物質的な幸福を奨励し、単に卑怯さと人間徳の欠如のせいで多くの人々が嘘と虚偽を用いる時代に、です。イエスは、真理への愛は、彼に従う者に必要な特質であると教えられました。このような愛は、平和をもたらします。「真理はあなたを自由にする」10からです。

私たちは、生活や財産や職業を、真理に対する大きな愛の上に、打ち立てるべく努力する点で模範的であるべきです。真理を愛し、真理を探さなければなりません。嘘が混じっているような時、私たちは心静かではいられないことでしょう。時には、罪、情欲、高慢、物質主義のせいで非常にきつい盲目状態になっているので、真理を愛さない限り真理を見つけることはできないでしょう。偽装して、あるいは明らかに、偽の評判や仕事上のより大きな利益に役立つというよう形で現れると、いとも容易に嘘を受け容れるようになります。誘惑に直面した時、それがどのように現れようと、私たちは、キリストの清らかで明確な教えを思い出しましょう。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」11

誠実(真実)であり愛から隣人を尊敬するように誰もが同じように義務づけられています。私たちに耳を傾ける人々に対して敬意があれば、場合によっては、自分の考えと意見を軽率に述べないで、彼らの年齢や形成の程度を考慮に入れて話すようになります。ある人が私たちに託した真理への愛があれば、仕事上の秘密や思慮分別が必要な時やプライバシ一に対する個人の権利に関して、私たちは道徳的に正しくなれるのです。そして、もし知る権利を持たない情報を知りたいと望む人に出会った時、必要ならどのように振舞ったら良いか助言を求めるべきです。

87.3 約束に対する誠実さと忠実

私たちが約束をする時、それは何らかの形で、自分自身を与えることを意味します。個人的な失敗にもかかわらず、真の弟子であり、キリストに従う人なら、正直で誠実、約束を守るでしょう。だから教会では、キリスト信者は「忠実な人」と呼ばれるのです。この言葉は、洗礼をとおして、神の人々の一員であることで得た状態であることを強調しています12。 しかし、信頼を与える人、私たちが信頼できる人もまた忠実と呼ばれます。このような人々は、自分に託された信頼、そして愛、友情、と義務の要求に従って行動します。このような人は約束を守ります。聖書では、「忠実」という言葉は神ご自身に当てはめられます。神以上に信頼に相応しい方は誰もいないからです。神は、常にその約束に忠実です。決して約束を守らないことはありません。聖パウロの言葉、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」13

神の言葉を守る人は誰でも忠実です。神と他の人々への委託を果たす人は誠実です。しかしながら、私たちの社会は、度々疑惑と相対主義に陥ります。多くの人々は、年齢にかかわりなく、約束を守る尊い義務を知らないように見えますし、全くの自由を持って、一旦引き受けた約束を果たすこと、また市民生活や信心生活で、神や人の前でした決意に従って振舞う気高い義務を知らないように思えます。困難が生じるかも知れませんが、信仰と教会の教えと聖人たちの模範は、この徳に生きることは可能であることを教えてくれます。神はできることをする人々に恩恵を拒まれません。

私たちは、徳が要求することすべてを果たすことで、あらゆる徳を実行することができるということをしっかりと確信し、他の人々が同じ確信を持つように助けなければなりません。徳を実践して約束を守ることは、達成できる望みもあまりなく、単に理想であり、狙うべき目標でしかないという考えが流行しています。決してこの誤りに私たちが陥らないように助けてくださいと主に頼みましょう。

誠実なキリスト者は、正しい倫理的な行いをすることが重大な義務を課したり、課すように思われたりする時でも屈しないでしょう。私たちは神に正しい良心を願わなければなりません。屈してしまう人は、理論的に具体的な徳を実行したいと思うかも知れませんが、実際には、誘惑が大きく困難がひどい時のことを考えて、多かれ少なかれ、誘惑に負けてしまうことを正当化します。こういう事態は、人の仕事の状態、官能が続いて起こるよう脅かされる時に力強く振舞う義務や、子どもたちに資金を調達するために厳しい努力をしなければならない時、配偶者に忠実であるため、自分の召命に忠実である義務に直面する時に生じることがあり得ます。今日、祈りの中で、心にイエスのこの言葉を思い出しましょう。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」14。岩とはキリストです。キリストは常に力をくださいます。

キリストに対する忠実。これは私たちが受けることのできる最も素晴らしい賞賛です。キリストは、現在や未来の状況がもたらすかも知れないものが何であろうと、私たちを頼みにすることがおできになるように、そして、私たちが友人を裏切らないこと、社会は、私たちが約束を守り、自由に責任を持って義務を果たすので、私を堅固な土台として頼りにできることを知るということです。汽車で夜に旅をする時、どんなに多くの人々の命が、空腹や喉の渇きにもかかわらず、持ち場に留まらなければならない運転手や信号係の手にあるか考えたことがありませんか? 同じように国全体の生活、世の中の生活は、仕事や社会で義務を果たす人々の忠実さ、契約をきちんと守ること、約束に忠実であることにかかっています15。 これらすべては、神を証人としなくても、申し分のない(非の打ちどころのない)人の言葉だけで十分なのです。

あなたがたは、「然り、然り」「否、否」と言いなさい。約束を守る人、日々、小さな義務を果たすことに誠実で、仕事で嘘偽を言わず、単純で賢明、あらゆる暗さを避け、私たちが言うこと、することに心を開き、率直な人々。私たちが、同僚に忠実であれば、神の恩恵によってキリストに誠実でしょうし、これは実際に考えられることです。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」16。もし毎日の人間の付き合いに誠実でないなら、キリストに対して正直で忠実とは言えないでしょう。

何かの困難の最中に友人が来て、「私を当てにしてください!」と言えば、何と嬉しいことでしょう。そのように、今日の祈りの中で、単純さと自分の弱さへの自覚を持って、神に近づいて言いましょう。「主よ、わたしに頼りにしてください!」 私たちは、一日中、射祷にこの言葉を使うことができます。

最も忠実な乙女でもある聖母マリアに願いましょう。日々、誠実、忠実に、義務と約束を果たすことができますように。

マタイ5:37

エレミヤ4:2

マタイ23:13-32 参照

ヨハネ1:47

ヨハネ14:6

ヨハネ8:44

ヨハネ3:11参照

使徒言行録1:8参照

ヨハネ14:6

10 ヨハネ8:32

11 マタイ5:37

12 福者アルパロ・デル・ポルティ一リョ,Faithful and Laity in the Church, pp.15ff 参照

13 1コリント10:13

14 マタイ7:25

15 G.Chevrot, But I say to you, Madrid 1981

16 ルカ16:10