年間第5週日曜日・A年 34. 光となる模範

年間第5週日曜日・A年 34. 光となる模範 ― キリスト信者は世の中で「塩と光」になるべき。先立つべきことは模範。 ― 家庭生活や専門職などにおいて模範になること。 ― 愛徳と節制における模範。塩が味を失ったら何の役にも立たない。

年間第5週日曜日・A年

34. 光となる模範

― キリスト信者は世の中で「塩と光」になるべき。先立つべきことは模範。

― 家庭生活や専門職などにおいて模範になること。

― 愛徳と節制における模範。塩が味を失ったら何の役にも立たない。

34.1 キリスト者としてこの世で塩と光でなければならない。良い模範が優先すべきである

日曜日のミサの福音[1]で、主はこの世での私たちの責任について話しています。あなたは世の塩であり、世の光である。しかも、イエスはイエスに従いたいと思う私たちそれぞれに言われます。

塩は食べ物に風味を与えて美味しくし、腐らないようにします。塩は神の知恵の象徴です。旧約聖書では、神に捧げられるすべての供え物は塩で味付けされなければならないと命じています[2]。 神を喜ばせるための犠牲をよろこんで捧げる人を表しています。光の創造は宇宙を生み出す神の最初の働きでした[3]。 そこには主ご自身のしるし、天国のしるし、生命のしるしがあります。これに対して闇は混乱と死と、地獄と悪の象徴になります。

キリストの弟子たちは、「地の塩」です。彼らはあらゆる人間の価値により深い意味を与え、腐敗を避け、人々に言葉で知恵をもたらしました。彼らは暗闇の中で人々に道を示す世の光でもあります。信仰に従って、非難の余地のない、正しい行いによって生きる時、彼らはこの世において明るい光のように輝きます[4]。 彼らの放つ光は、仕事、毎日の行い、普通の生活をしている只中で輝きを放ちます。反対に、キリスト者が家族や社会、国の公的生活での役割を果たさない時には、すぐにわかります。キリスト者が生活し、仕事をしている場でキリストの教えに従わない時、人間的価値はつまらない、面白みのないものになり、それらの持つ卓越したものはどんなものであれ失われ、多くの場合、腐敗したものになってしまうのです。

まわりを見まわすとき、人々がキリストの塩であり光であることをやめたなら、どういう結果になるかは容易に気がつきます。市民としての生活は、神を否定することに並行する俗化した観念の結果、または、経済的万能薬に踏みにじられて、宗教上の自由を著しく制限されるという事実に脅かされています。これらは人々の成功のために仕事や生産量のような偏った人間的価値判断を頼りにします。それは物質主義と享楽主義から拡大され、堅い絆で結ばれた大家族の価値を攻撃し、新しく生まれた生命に対する倫理的な意見を誤らせます。このような間違った倫理的指導は、若い世代の人々をニヒリズムへと向かわせます。それは意志を鈍らせ、新たに貧しくなった人々、移住者、民族的宗教的な少数派などの重要な問題に真正面から立ち向かうことができないようにします。社会はコミュニケ一ションの手段を正しく使うことを決めるのに無力であるように見えます。一方では武器をテロリストの手に渡します[5]。 多くの悪が洗礼を受けた人や信仰者の怠慢によって生じます。個人と共同体に調和を保証する、信仰の真理とキリスト教的なものの見方が持つ、教理的、道徳的な力不足から多くの悪が生じるのです。この生命観は個人的にも社会的にも同じように正しくバランスのとれていたものでした[6]。 私たちはヨ一ロッパと世界[7]に、もう一度福音を伝えることが必要であるという状況に至ります。主がお望みになった塩と光になっていない非常に多くのキリスト者たちの蓄積された怠慢の結果として、です。

キリストは人々が存在の意味に気づき、創造されたことの真の幸福と救いを見出すことができるようにと、その教えと現存を私たちに残されました。丘の上に建てられた町は隠すことができない。ランプに灯をともし、家の中全体を照らすために、台の上に置かず、ますの下に置く人はいない。主は福音書の中で教え続けておられます。あなたの光を人々の前で輝かせなさい。彼らがあなたの良い働きを見て、天におられる御父に栄光を与えることができるように。そのために私たちは、まず清い振舞いで正しい生活の模範を示し、毎日の普通の生活の中で、人間的、キリスト教的徳をまさに目に見える形で実行する必要があります。世の中には光がなければなりません。良い模範が道を案内しなければなりません。

34. 2 家庭生活、仕事場、その他での良い模範

人間を圧倒する恐れのある物質主義と享楽主義の風潮を考慮した「主のお望みは、私たちの心からキリストの右手のように清くて強いもう一つの波が流れ出て、すべての物質主義をその清さで溺れさせ、世界中に氾濫した腐敗を追放することである。このため、そしてこれ以上のために、神の子らが来たのである」[8]。それは神が世の中に知られるように、キリストを私たちの生活と交わる多くの人々のところにもたらすためです。

私たちの生活や仕事をしているところ、私たちの夢が実現しているその本当に小さな所から始まり、私たちは本当に世の中を変えるでしょう。それは、私たち自身の生活で立証して教え始め、仕事においては模範的で有能で誠実であり、家庭生活では子どもたちや両親が必要とするだけの多くの時間を彼らに捧げ、困難や苦難の時でさえも朗らかで、人々に対して社交的で温かくしていれば、人々は他のどんな形の言葉よりも行いに大きな信頼を寄せるでしょう[9]。 そして私たちの行いが示す生活に惹かれるのを感じるでしょう。私たちの模範は後で言葉が実現するための土壌を準備します。ありふれたことや普通のことを用いて何かを行うことなくして、キリスト者は日常生活でキリストに従うことが本当に意味するものを、初代キリスト者がしたように示すことはできません。聖パウロはエフェソで信者たちを励ましています。神から招かれたのですから、その招きに相応しい歩みをしなさい[10]

私たちは忠実、率直、正直、快活、勤勉で楽観的な男女として知られるべきです。義務をきちんと果たし、時の流れとともに移り変わる流行に押し流されるままにならず、あらゆる瞬間に神の子としての振舞い方を知っている人の行動をしなければなりません。そうすればキリスト者の生活は、人々がキリストの精神を認識することになる前兆になるでしょう。従って、仕事仲間や家族、友人たちが私たちの行いを見て心動かされ神に栄光を与えるようになるのかどうかを、私たちは頻繁に個人的祈りの中で問わなければなりません。私たちに暗闇ではなく光があれば、生温さでなく神の愛があれば、それは良いしるしでしょう。イエスはあなたを必要とされています。ヨハネ・パウロ二世は次のように言っておられます。「あなたが、他の人の善のために自らを捧げているとき、自分は福音書に出てくる忠実な僕であると確信するなら、その時、あなたはある意味であなたの顔、心、全人格を主に提供していることになります。その時、あなたは人の心を魅了しているイエスご自身であるのです。しかし、もしあなたが弱く、意地が悪ければ、イエスの真の本質をくもらせ、全く栄光を主に帰さないことになるでしょう」[11]

この現実を絶対に見過ごしてはいけません。他の人々が、私たちの毎日の率直で落ち着いた振舞いの中にキリストを見なければなりません。私たちが仕事をしている時でも休息している時でも、良い報告を受けるか悪い報告を受けるかどうかにかかわらず、私たちの中にキリストを見なければなりません。私たちが話す時も沈黙している時も、イエスの声を聞かなければなりません。ですから、このために私たちには主人のすぐ近くで従う必要があるのです。

34.3 愛と節制の良い模範、味を失った塩は役に立たない

第1朗読[12]で、預言者イザヤは、キリスト者が心に持つ愛徳をどのようにすれば具体化できるかを教えるために一連の愛徳の行い・慈善の業を書き残してくれました。いずれを実行しても、神が私たちを愛してくださったように[13]、人々を愛することになります。私たちはパンと避難所を他の人々と分け合わなければなりません。着る物のない人に服を着せなければなりません。すべての恐れや災いを追い払わなければなりません。その時、答唱詩編のしるし、あなたがたの光が夜明けのように現れてくるでしょう。あなたがたの光が暗闇を照らし、暗闇は真昼のようになるでしょう[14]。 私たちの周りのそれぞれ異なった環境にいる人々に対して、愛徳を実行して接するなら、多くの人々をキリストの信仰に引きつける証しになるでしょう。イエスご自身がこうおっしゃっているからです。「それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」[15]。多くの人々が型にはまった形式的なものとみなし、ただ社会的な関係を容易にするだけのものとしか見られていないありふれた友情の規範は、キリスト者にとっては、神と一致した愛の実り、愛の行いを超自然的内容で満たし、心から理解して関心を持っているという外的な表れでなければなりません。リジュ一の聖テレジアはこう記しています。「今、私は、真の愛は隣人の弱さに驚くことではなく、そのすべての欠点に耐えることにあり、ほんの僅かな愛徳の行いからも学ぶ必要があります。けれども私は、愛は心の内側にしまったままにしておいてはいけないことを学びました。人は灯りをつけて、ますの下に置かず、台の上に置いて家の中全体を照らすからです。このランプは最も愛する人々だけでなく、たまたまその家にいるすべての人、すべての家族、共に仕事に励む人々一人ひとりを照らし、喜びを与える愛徳を象徴しているように私には思われます」[16]。こういう愛徳は私たちの普段の良い態度と礼儀によく表れます。

主がお話しになる塩と光でなければならないもう一つの重要な局面には、節制と質素があります。現代の特徴は、どんな代価を払っても物質的な利益を探し求めること、苦しみを伴うものならどんなものでも心底恐ろしい(とも言うべき)恐れとして恐れると同時に、忘れる傾向があります。この見地から見れば、神や罪、十字架、苦行、永遠の生命のような言葉は、多くの人々には不可解なことですから、それらが意味し暗示することを理解しないのです[17]。 だからこそ節制と節酒の寛大な証しが特に緊急に必要なのです。それによって地上の富に価値を置きすぎる人々、それにのめり込みどっぷり浸かっている人の節度ではなく、地上の富を必要性と義務に従って使用している人の節度を持って使用する神の子たちの自制が示されます[18]

今日、聖母に、私たちの生活と言葉をとおして、個人と社会の腐敗を防ぐ塩であるように、また、灯りを灯すだけでなく、暖かさを与える光であるように助けてくださいと願うことができます。私たちが燃え尽きることなく、いつも愛で燃え立っていますように。私たちの行いがイエスの愛すべきみ顔をはっきりと反映しますように。聖母に信頼をもって心の底から願いましょう。多くの聖人をすべての人々に光と熱を与えるランプにされた神である主が、私たちが光の子として霊魂のこの輝きもって歩む願いを叶えてくださいますように。

[1] マルコ1・2-39

[2] レビ記2・13-3 参照

[3] 創世記1・1-5

[4] フィリピ2・15 参照

[5] 聖ヨハネ・パウロ二世 演説、1982年11月9日

[6] 聖ヨハネ・パウロ二世 演説、1982年11月9日

[7] 聖ヨハネ・パウロ二世 演説、1985年10月11日

[8] 聖ホセマリア・エスクリバー 『鍛』 23

[9] 聖ヨハネ・クリゾストモ 聖マタイによる説教 15・9

[10] エフェソ 4・1

[11] 聖ヨハネ・パウロ二世 演説、1983年5月29日

[12] イザヤ 58・7-10

[13] ヨハネ 15・12 参照

[14] 詩編 3・4‐5 参照

[15] ヨハネ 13・35 参照

[16] 幼きイエスの聖テレジア 『ある霊魂の物語』 9・24

[17] 福者アルバロ・デル・ポルテーリョ 手紙 1985年12月25日 4番

[18] 聖アウグスチヌス カトリック教会の習慣について 2・21