年間第5週・月曜日 37. 社会の中で生きる

年間第5週・月曜日 37. 社会の中で生きる ― 人間の社会性。 ― 愛徳と人間の連帯。信者の生活における一貫性。 ― 共通善への貢献。

年間第5週・月曜日

37. 社会の中で生きる

― 人間の社会性。

― 愛徳と人間の連帯。信者の生活における一貫性。

― 共通善への貢献。

37.1 人間の社会的な面

聖書の最初のページに、世界の創造が単純ではありますが、壮大に描かれています。そして、「神はそれを見てよしとされた …」。 すべては神の手から創造されたのです[1]。 神はご自分がお創リになったすべてのものの仕上げとして、最後に人間をお創りになりました。しかも、ご自分に似せてお創りになりました[2]。 聖書によれば、神は、人間に超自然の賜物と特権をお与えになり、永遠不滅の幸せを約束されていたことがわかります。また、聖書を読むと、すべての人は、アダムとエバの子孫であることもわかります。二人は、創造主から離れましたが、神の子であることには変わりなく、神はもう一度主との友情を取り戻すように定められました[3]。 神は人類の保存と繁殖に貢献することをお望みになり、人間に大地を与え司らせるためにお呼びになったのです。そして、地を満たし、地を支配するよう、お望みになったのです。「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」[4]

神はまた、人間同士の関係を、偶発的でその場限りものではなく、社会生活で安らぎを与えるほどのまさに大黒柱になるほどの強くて永続的な絆を築くことを望まれました。もし生活の必需品や生活の品位を保つために必要なものがいるのなら、お互いに助け合うはずです。というのも、神の摂理によって人間性は、家庭や社会生活において、生まれたときから互いに連帯し一致するように創られているからです。このような連帯を通して、人は生活必需品を手に入れるのです[5]。 第二バチカン公会議によると、「人間はその本性の内奥から社会的存在であり、他者とのかかわりなしには生きることも資質を開花させることもできない」[6]。 「社会は、人間が自分の目的に達成するために活用することができるだけでなく、活用すべき手段です」[7]。 神が私たちに聖化を望まれ、主に仕えるように望まれたのは、この日常の場なのです。

社会で生活することで、普段の生活も超自然の生活を成長させていくために必要な物的・霊的な手段を手に入れやすくなります。他の人と生活することで多くの良いこと、利点がありますが、同時にどんな環境にいようが常に家族の中での自分の立場、あるいは社会生活、近所付き合い、職場などでも、その中で自分の立場を考える義務が生じます。この義務は、人間の最終目的である神と人間の関係なので道徳的な意味合いを持ちます。この義務を守ることで神にさらに親しくなることもできますし、反対に守れなければ神から遠く離れることになります。

神は、私たちを、人々と共存し、小さくても大きくても善に貢献できることをただ為すように呼ばれています。この祈りの中で、私たちが他の人、特に神が私たちの身近に置かれた人々に心を開いているかどうか糾明してみましょう。いつでも私たちが人のために手が空(あ)いているようにしているかどうか考えてみるべきです。つまり、家族や社会の義務の果たし方で良い模範を与えているかどうか。その時その時何をするべきかわかるために、そして、犠牲の精神をもって最後まで勇気を持って完全に仕上げるために、神に光を願っているかどうか。また、次のようにしばしば自問するべきです。他の人々のために私は何ができるでしょうか。他の人を慰め助けるためにどんな言葉を言うことができるでしょうか。人生は過ぎていきます。私たちは絶えず多くの様々なところで人々に出会っています。どれほど多くのことが為されていて、どれほど多くの言葉が語られないといけないのでしょうか。確かに私たちは行動を起こさなければならない(使徒言行録1・1参照)のですが、同時に語らなければなりません。耳にも、心にも、精神にもそれぞれの動きがあります。つまりそれらには、悲観という泥沼状態から抜け出し、不幸せな現状から立ち上がる勇気を与えてくれる優しい声があるのです。

「もし私たちが神を愛しているのなら、過ぎ去った日々に、私たちの傍を通った人々のために、必要なことをしてあげなかったこと、言うべきだったのに言わずにおいてしまったことなどに気づいて、きっと良心の咎め感じることでしょう」[8]。度々、私たちを見て、私たちの言うことに耳を傾けておられるイエスに、私たちが、血縁の人や同郷の人や同僚に、友情を通して無関心になったり、背を向けたりすることが決してないようにと頼みましょう。

37.2 愛徳と人間の友情。キリスト者の生活の重要性

神のみ旨である私たちのこの連帯と相互依存は、イエス・キリストが受肉の瞬間に受け取った人間性を身につけられた時、そして十字架上で全人類の救い(贖い)が実現した時に、確認され、強められました。このことは、一致への新たな要求です。神の子である人類は、兄弟として創造されているからです。だから、私たちは毎日自分の近くを通りすぎる人全員に関心を持つべきです。神の子であることの素晴らしさに気がついていないか、もしかしたら父なる神に反抗している人がいるかもしれません。でも、あらゆる事の中、神的な事から最も離れ反抗しているような、最も醜い事の中にさえ、神の偉大さが光っているものです。もし私たちが見る目を持っているなら、素晴らしい人々に囲まれていることに気づくでしょう。そして彼らが、自分の起源がどこにあり、自分の尊厳に責任を持つことに気づくよう、私たちが助けることが大切です[9]

更に、ご受難の前夜、主は私たちに新しい掟を残されました。それは、どんなに英雄的な勇気が要求されようが、分裂を引き起こす悲嘆や立腹、恨みのようなものをはるかに超える掟です。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」[10]。即ち、限度を設けたり、言い訳をして人を無視したり、冷淡に扱ったりしないということです。私たちの人生は、社会の中で生活するためのしっかりとした理由が十分にあるわけです。私たちが、キリスト者として行動すればするほど、社会はもっと人間らしくなります。私たち人間は、砂浜の砂粒のようにばらばらでお互い何の関係もないものではありません。それどころか人としてお互いに自然の絆で結ばれ、キリスト者として超自然の絆でも結ばれているのです[11]

道徳で大切な部分は、全人類の共通善に触れる義務と関係しています。その善とは、住んでいる国の善、勤め先の会社の善、自分が所属する地域の善、一番の関心事である家族の善ですが、それは自分がどの立場でその中にいようと追求されるべきものです。ただその義務が、自分にとって個人的に役に立つか利益のないものかだけで判断するのはキリスト教的ではないし、人間としても理にかなったものではありません。神は社会とその社会を構成する一人ひとりを良くするためにお互いに自分の可能性に従って努力することを私たちに望んでおられます。

使徒職と兄弟愛は、神のみ旨のなかで人間にとってとても本質的なものなので、付き合っている人や一緒に暮らしている人たちとの絆がなくなれば、神に対してどんな申し開きもできなくなります。もし自分の周りの人といかなる形にせよ決別したり、公的、社会的な徳を実行しないならば、神はお喜びにはならないでしょう。兄弟である人々を見て、出会いを求めて来られるキリストに気がつかなければなりません。誰の生活であっても、決して孤立したものではなく、周囲の人々の生活と密接に結びついています。どんな人もばらばらに孤立した一行詩ではなく、皆が「神の詩」の一部を構成しています。私たちの自由意志に基づいた協力をえて、神はそれを書き上げていかれるのです[12]

念祷で私たちがどのようにこの共通善に貢献しているか糾明してみましょう。社会人として、市民としての義務をすべて模範的に果たすようにしていますか。交通ルールに従うとか、正当な税金を払うとか、会合に参加するとか、投票するとかはどうですか。いつも私たちには人々が必要であるし、人々も私たちが必要であることを覚えているでしょうか。他の人の道徳的な行動にも部分的には私たちに責任があることを感じていますか。分裂を引き起こしたり、少なくとも一致を壊したりすることを躊躇いなく避けるよう努力していますか。

37.3 共通善への貢献

社会の発展はそれを構成する人たちの貢献によります。人は、神からいただいた才能に加えて、知性を磨いてその才能を伸ばし、神からいただいた恵みと社会からの援助のお陰で社会に貢献しているのです。私たちがこのような恩恵と才能を生まれながらに備えているのは、自分の人格を成長させ、最終的な目標に到達するためです。それだけではなく、隣人に仕えるためにも与えられているのです。もし、その人たちの善のために献身しなければ、決して最終目的に到達できないでしょう[13]

社会の発展が、神のご計画にとって重要なものならば、一人ひとり個人が共通善を協力して追求することは、避けることのできない人としての道徳的な義務であるということになります。社会生活は人間に追加されたものではない。したがって、人間は他人との交流、相互奉仕、兄弟たちとの話し合いを通して自分のあらゆる才能を伸ばし、自分の召命に応えることができる[14]

義務の中には色々な形をとって厳しい正義を実行することになるものもありますし、中には義務をはるかに超えてお互いに愛徳を実践する必要があるものもあります。どちらの義務も私たちが共通善に貢献する度に果たされます。例えば、人々の生活条件の改善に役立つ私的または公的制度を促進し援助することで[15]、私たちが生活している社会がもっと人間らしいもの、キリスト教的になるのです。慈善や教育の事業、文化的な事業、健全な教義に関する出版事業などがあります。なぜなら、寛大な意見を公言しながら、実際には社会の種々の必要については、何の配慮もしないような生活を続けている人がいます。そのうえ、色々な地域で多くの人は社会的法律や条令をほとんど無視している[16]。 これは、自分の兄弟である隣人と神に背を向けていることです。

神のみ前で私たちの周りにいる人々について考えてみましょう。社会の善のために行われている施設や施設の仕事に自分の仕事を割くことで、共通善を高めるためにできる限り貢献しているでしょうか。時間だけでなく、経済的な支援、特に困難の中にいる人々を、イニシアティブをもって助けることでも貢献しているでしょうか。社会の一員として生活する中で生じる義務を忠実に果たしているでしょうか。例えば、騒音や衛生面などに関してどうでしょうか。他の人を快くさせる徳、愛想のよさ、感謝、楽観主義、時間厳守、秩序などを家族の中で実行していますか。他の人に仕えたいという思いで心を働かせていますか。「日々、人々のことを考えて生きるようになって欲しい。自分のいることを忘れてしまうほど献身的になって欲しいものだ」[17]。こうすれば、この地上で手に入れることのできる幸せの大部分を見つけたことになり、神の子であり兄弟のように手を貸してあげたことになるでしょう。

[1] 第一朗読、奇数月、創世記1・1 参照

[2] 創世記 1・27 参照

[3] 創世記 12 参照

[4] 創世記 1・28

[5] レオ十三世 回勅『インモルタレ・デイ』1885年11月1日

[6] 第二バチカン公会議 現代世界憲章 12

[7] ピオ十一世 回勅 『ディヴィニ・レデンプトリス』1937年3月19日

[8] ロペス パルド、『Sobre la vida y la muerte』Rialp Madrid 1973年、438ページ

[9] ロペス パルド、『Sobre la vida y la muerte』Rialp Madrid 1973年、346~347ページ

[10] ヨハネ 15・12

[11] レオ十三世 回勅『スムミ・ポンティフィカツス』1939年10月20日 参照

[12] 聖ホセマリア・エスクリバー 『知識の香』111

[13] レオ十三世 回勅 『レノム・ノヴァルム』1881年9月5日 参照

[14] 第二バチカン公会議 現代世界憲章 25

[15] 第二バチカン公会議 現代世界憲章 25

[16] 第二バチカン公会議 現代世界憲章 25

[17] 聖ホセマリア・エスクリバー 『拓』947