年間第3週・火曜日 20. 神のみ旨

年間第3週・火曜日 20. 神のみ旨 ― 聖マリアと神のみ旨を果たすこと。イエスの「新たな家族」。 ― 神のみ旨の表れ。自己の義務を遂行する。 ― 祈りにおいて私たちに関する神のご計画を探求する。

年間第3週・火曜日

20. 神のみ旨

― 聖マリアと神のみ旨を果たすこと。イエスの「新たな家族」。

― 神のみ旨の表れ。自己の義務を遂行する。

― 祈りにおいて私たちに関する神のご計画を探求する。

20.1 聖母と神のみ旨の成就。キリストの新しい家族

今日の福音で、聖マルコは、私たちに教えています。 イエスが、多くの人々に説教をしている間に、イエスの母は、数人の親戚の者と一緒にイエスに頼みごとに来ました。おそらく群衆が家に溢れるほどいたに違いありません。マリアは、外にいて息子に使いを送りました。それに対してイエスはこう答えられました。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」。そしてまわりに座っている人々を見回して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。これは血縁の家族よりも強く結ばれたキリストの新しい家族です。その家族では、マリアは最も卓越した方です。なぜなら、マリアほど大きな愛と完全性をもって神のみ旨を実行した者は今まで誰もいなかったからです。

聖母は、二重の絆でイエスに結ばれています。まず、天使のお告げを受け入れたとき、私たちが理解できないほど完全なやり方で神のみ旨に一致されたからです。同時に、イエスがここで弟子たちの面前で宣言されている家族にさらに深く結ばれるために、受胎されたときに息子に対して霊的母性を獲得されました。聖アウグスチヌスは、次のように指摘しています。もしマリアが、さらに幸いな仕方でキリストを、まずは心の中に、そしてそのすぐ後で、ご自分の胎内にみごもらなかったなら、肉体による母性は、マリアにとってほとんど役に立たなかったでしょう。 マリアは、その胎にイエスをみごもられたときに母になられ、母親なら誰でも自分の子どもにするように、マリアは、母としてイエスの世話をされ、食事を与え保護されました。ところが、イエスは、神の子どもたちの大家族を作り上げ、寛大にマリアご自身をその家族の中に入れられました。というのも、マリアは御父のみ旨を行われたからです。…主は、弟子たちに、この天上の親について話されたとき、マリアが新たな家系によってご自分に一致していることを示されました。 マリアは肉によってイエスの母です。そして、神のみ言葉を聞きそれを完全に守った最初の方でもありました

私たちは、血のつながりよりも強くキリストの家族に結ばれているという大きな喜びがあります。その喜びは、神のみ旨をどれほど果たすかによります。そのため、キリストの弟子なら、主が言われたようにこう言うべきです。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方のみ心を行い、…」。家族の自然な感情を犠牲にしなければならない時でさえです。とは言え、家族への愛情は正しい秩序の下に置くことになります。聖トマスもまた、家族の絆以上に恩恵で結ばれた絆を大切にするというイエスの宣言を説明します。イエスにはこの世の誕生と永遠の誕生があるが、主はこの世の誕生よりも永遠の誕生の方を大切にされると言っています。神のみ旨を行う信者はすべて、キリストの兄弟です。なぜなら御父のみ旨をいつも行ったイエスのようになるからです

今日、祈りの中で、小さなことにおいても大きなことにおいても、好きなこと、嫌いなことにおいても、神が私たちにしてほしいと望まれることを行う望みを持っているかどうか糾明することができます。理解したり的確に解釈したりするのが難しい時でさえ、起きることすべてにおいてこの聖なるみ旨を愛するよう教えてくださいと、母である聖母に願いましょう。このようにしていけば、すでに私たちはキリストの家族に属していることになります。

20.2 神のみ旨のしるし、義務を果たすこと

神の家族に属し、すべてにおいて神のみ旨を行うという強い絆でキリストに結ばれることは、キリスト者の召命の一つの結果です。私たちが熱望しなければならない聖性は、自分の意思とキリストのご意思が一緒になることにあります。キリストの次のお言葉が、天国の門を開いて中に入るための鍵です。「天におられる私の父のみ旨を行う者だけが、天国に入るのである」

主の贖いのみ業を時々悲しそうに諦めて見る人々とは対照的に、キリストは熱心に御父である神のみ旨を愛され、多くの機会にこの愛を明らかにされました。 キリストに似たいと望むならば、この態度を自分のものとしなければなりません。神がお望みになることは何でも愛さなければなりません。それが理解できるかどうかにかかわらず、それは常に天国に至る道ですから、私たちの生涯の目的と完全に一致するものです。シエナの聖カタリナは、主が言われた慰めの言葉を述べました。「私は、あなたの善だけを望む。あなたの目的が成就するために、私が与えるか許すことすべてを、あなたに許し与える。そのために私はあなたを創った」。神は、私たちにとって良いことだけを望まれています。

神は十戒をとおしてみ旨をお示しになりました。それは私たちの行為を神に向けるために、私たちの義務すべてと実践的な規範を表したものです。ですから、掟を守れば守るほど、神がお望みになることをさらに愛するようになります。神はまた、母なる教会の指示と助言と神の掟をとおして、私たちにご自分をお表しになります。こうして神の法の掟を守るのを助けてくださいます。また霊的指導で受ける助言においても主はご自身をお表しになり、神の法の掟を守るように助けてくださるのです10。 私たちの身分上の義務は、生活の特定の環境によって神がお望みになることを左右します。たとえば、次のような義務を果たさなければ、私たちは決して神を愛さず、自分を聖化することもないでしょう。つまり家族のために注意を払い、世話をすること、勉強や仕事を上達させる熱心さです。毎日たくさんある身分上の義務のお陰で、キリスト者は、神が自分にお望みになることを瞬間ごとに明確にわかるのです。この義務の中に神の御心を認め愛することで、それを完全に成し遂げるために必要な力を神はお与えになります。私たちは、超自然徳と同じように人間徳を実行する領域がこの義務の中にあることに気がつくでしょう。

神のみ旨は、もし私たちが、もっと父である神に信頼し愛し続けるなら、さらに大きな善に常に向かい、全能の神の許された出来事をとおしても示されます。それぞれの出来事の後ろに隠された摂理があります。理解できないことでさえ、私たちの意志が抵抗し始める出来事もすべて善に向けて秩序づけられています。「すべてのことは善に向けられている(OMUNIA IN BONUM)」。生涯神が起きることを許される出来事の不思議さと不可解さを完全に理解することは決してないでしょう。

日々の重要な状況と小さな事柄において、神のみ旨に一致した行いをする習慣がつけば、霊魂は溢れんばかりの実を結ぶことでしょう。「イエスよ、あなたが〈お望みになる〉ことを、私は愛します」11。そして、私が愛するようにお望みになることだけを私は愛します。

20.3 神のみ旨を理解する手段としての祈り

天のみ旨を行う者は誰でも私の兄弟、姉妹、母です。キリスト者のただ一つの希望は、神のみ旨を果たすことであるべきです。毎日の出来事に直面するとき、自分に頻繁に次のように問いかけるべきです。このことに関して、この状況、その人と私との関係において、神は私に何を望んでおられるでしょうか? 神にもっと喜んでいただけることは何でしょうか? 自問をしてからとりかかるべきです。もし日々の行いについて、家庭生活での振舞い方について、友だちや同僚に対する振舞い方について祈るならば、神のみ旨を果たすやり方を見出すための多くの光が与えられるでしょう。私たちの個人的な祈りは、特別のやり方で度々私たちをもっと神のお望みに従って生きるために、私たちの生活や行いを変えたり修正したりする行動を促すでしょう。一人ひとりの霊的指導をとおしてわかる神のみ旨に関して、神は私たちの心を照らされます。

神が私たちに何かを望んでおられるのがわかる時、私たちは即座に喜んで実行すべきです。多くの人々は、神の望みが自分の好みに一致しない時、そのみ旨に反抗します。ある人は、多少気が進まないまま諦めて天の計画にただ従うことによってみ旨を受け入れます。というのも、他の選択肢が全くわからないからです。またある人は、愛からではなく単純に、み旨に従います。しかし、主は、私たちが聖なる自己放棄によって御父である神を完全に信頼し、天のみ旨を愛することをお望みになります。同時に、それぞれの呼びかけに必要な手段を必ず用いるべきです。主よ、あなたは、私が何をすることを望んでおられるのでしょうか? 自分の心の中の望みのために、もはやそれが行いに移ることがないほどにまで、自分の意志を放棄して喜んで主のみ旨に完全に従うようになる人はなんと少ないことでしょう!12

これはキリストが福音書の中で私たちに言われたことですが、血の絆よりも近いこのような緊密な絆を持つために、いかなる条件も付けることなく、そして、あれやこれやと問題が起きてくるのを神がなぜ許すのかわからなくても、日々、自分自身を捨て、自分自身を主に委ねなければなりません。私たちの霊魂を清めたいとお望みになって送られる内的、外的な試みをとおして示される神のみ業に無条件に従順でなければなりません。家庭生活、仕事や休息の中で数えきれない喜びを受け入れたように、生活がもたらす困難、失敗、失望を喜んで受け入れなければなりません。予期することのできる誘惑、また、多分、信仰生活における無味乾燥のような試練から、それが私たちの生温さや愛の欠如によるものでない限り、善を引き出すことができます。神の側のこのみ業と摂理によって許されたこれらの事柄を、どんな条件も、好奇心も、心配も、疑いもなく受け入れなければなりません。なぜなら、神は、いつも私たちの善をお望みになることを知っているからです。神が私たちの傍にいてくださることと、その恩恵の助けを信じて、寛大に受け入れなければなりません。神のこのような私たちへの行いにいつも応えられますように。あなたのみ旨が行われますように13。 苦しみや病気、失敗、その時は取り返しがつかないように思われるような不可解な災難に対する私たちの態度は、こうでなければなりません。父である神に力を与えてくださるように願いながら、できるだけ理にかなって可能な限りのあらゆる人間的な手段を使わなければなりません。もしそれが神のみ旨なら、これらの失敗を克服できますようにと願わなければなりません。最初は、ただ打ち勝つことのできない不運としか思われないことから、最も大きな人間的で超自然的な実りを引き出すための恩恵を願わなければなりません。

毎日仕事や家庭の狭い小さな領域や友だちや知り合いの間で起きるあらゆることは、神の摂理であることが私たちにわかるようになるでしょうし、そうでなければなりません。神のみ旨を果たすこと、み旨が行われていることを知っていることは、落ち着きと感謝の根源になります。初めは破滅的な影響を軽くする手立ては皆無である災害だと思われることにも、しばしば主に感謝するようになるでしょう。

「限りなき献身の師・聖母マリア。憶えているだろうか。イエス・キリストが、『神のみ心を行う人こそ、わたしの…母なのだ』と仰せになったのは、聖母を称えるためであったことを。優しい御母にお願いしなさい。物惜しみしない心の模範、すなわち、『わたしは主のはしためです』という聖母の言葉があなたの心の中で、力、すなわち愛と自由の力を得るように」14

マルコ3・31-35

聖アウグスチヌス,On Holy Vircinity, 3

聖アウグスチヌス,Epistle 243, 9-10

聖ヨハネ・パウロ二世 回勅『救い主の母』20-21 1987年3月25日 参照

ヨハネ4・34

聖トマス・アクイナス Commentary on St Matthew’s Gospel, 14,49-50 参照

聖ホセマリア・エスクリバー『道』754

ルカ22・42、ヨハネ6・38 参照

シエナの聖カタリナ,Dialogue, 2,6

10 Catechism of St PiusX ,472

11 聖ホセマリア・エスクリバー『道』773

12 St Bernard, Sermon on the Conversion of St Paul 参照

13 B. Baur, In Silence with God

14 聖ホセマリア・エスクリバー『拓』33