神のやさしさ (V) :それは私にしてくれたことである。身体的慈善の業

この記事は、イエス・キリストが示唆された身体的慈善の業について語っています。キリスト者は、見知らぬ人であっても、他者の必要に対して背を向けることはできません。それは、キリストが私たちの助けを求めているのだから。

神は、私たちに愛していると仰せになっただけではありません。神ご自身が地の塵から私たちをお造りになりました[1]。「神の手によって私たちは造られたのです。神は手工芸家です」[2]。神は私たちをその似姿として創造し、なお且つ「われわれの中の一人」[3] になることをお望みになりました。つまり、みことばは人となり、その手で働き、あらゆる時代の全ての惨めさを背負い、その忠実な愛の変わらぬしるしとして、ご受難の傷を永遠に保とうとお望みになりました。これによってキリスト信者は、単に神の子どもと呼ばれるだけではなく、実際に神の子どもになったのです[4]。神にとって、またその子どもたちにとって、愛は「決して抽象的なことばではありえません。愛は、その本性から具体的な営みです。日常生活の中で確かめることのできる、意図であり、姿勢であり、行動です」[5]。聖ホセマリアがこう言っていました。「キリスト教を単なる信心業のプログラムに過ぎないかのように考えて、他人への援助や社会の不正を除くための努力が日常生活とは無関係であるとみなす人々がそれです。

このように考える人々は、神の御子が人となられ人間の体と霊魂をおとりになり、人間の言葉をお話しになり、死という最も苦しい運命までも経験された意味が充分に理解できていないと言えるでしょう」[6]

いつくしみへの招き

キリスト信者であるとは、無条件の神の愛に包まれ、「何よりも大きな神の愛」

福音書でイエスがお示しになった最後の審判の場面で、義人も不正な人も当惑し、主に尋ねます。いつ、飢えて裸であったり、病気だったりした主を見て、助けたり、あるいは無視したりしたのか、と[7]。すると主はお答えになります。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」[8]。これは、単に主を思い出させるための技巧を凝らした言い方ではなく、主のいつくしみの模範に倣うようにということです。イエスは荘厳に「はっきり言っておく…わたしにしてくれたことなのだ」と仰せになります。主は死に至るまで人間を愛し「ある意味で自分をすべての人間と一致させた」[9] のです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」[10]。キリスト信者であるとは、無条件の神の愛に包まれ、「何よりも大きな神の愛」[11] の虜になっているということです。

福音のこの場面で主は、飢え、渇き、旅、裸、病気と牢について話しておられます[12]。いつくしみの業はこの路線上にあります。教会の教父方は、度々このことを語り、物的霊的いつくしみの業を展開しましたが、あらゆる困難に手を差し伸べることができたわけではありません。時経て加えられたことは、死者の埋葬で、相応しい霊的な要素、つまり生者と死者のために祈りの伴ったものであることが義務付けられました。次号から2回、キリスト教の知恵が私たちの召し出しの集大成として掲げたいつくしみの業に関する事柄を取り上げることにします。主があらゆる時代に召し出される ― 普遍的召し出し ― 弟子たちに仰せになる「あなた方の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」[13]と関連していることだからです。いつくしみの業はこの呼び掛けに応えていくことです。最近教皇様が勧めておられます。「このことを記憶に留めておくなら、慈善活動がより容易になるでしょう」[14]

実際的な連帯

物的いつくしみの業を見直そうと回りを見渡すと、一見、実行するのにふさわしい状況ではないと思えるかもしれません。前世紀の人々の生活は、自然の力、人間の気紛れや肉体の弱さにさらされていましたが、現代は、 ― 非常事態や自然災害は別として ― 多くの国で、亡くなった人を埋葬したり、ホームレスの人を保護したりすることは、その国の組織が行っているので、緊急に必要になることはほとんどありません。しかしながら、このようないつくしみの業を必要としているところも少なくありません。先進国でも、社会福祉サービスが提供される一方で、物質的に非常に不安定な状況、いわゆる第4世界が多く存在します。私たちは誰もが、この現実を把握し、その改善のため何ができるかを考える責任があります。「しっかりと目をあけ、瞳をこらして周囲をながめ、主が私たちのまわりにいる人々を通してなさる呼びかけに気づかねばなりません。自己のちっぽけな世界に閉じこもり、人々に背を向けて生きることなどできないのです。イエスはそうはなさいませんでした。福音書には、主が慈悲深く、人々の苦しみや困窮を敏感に感じとられたことがしばしば書かれています」[15]

しっかりと目をあけ、瞳をこらして周囲をながめ、主が私たちのまわりにいる人々を通してなさる呼びかけに気づかねばなりません。

いつくしみの業は、たとえ面識がなくとも苦しんでいる全ての人たちに連帯することから始まります。「私たちは単に個々人の問題を気遣うだけではなく、他の市民と同じように私たちにも影響のある災害や公的な災難の中で皆と全面的に連帯します」[16]。一見私たちには、この態度は高尚な感情である一方で、役に立たないように思えます。しかしながら、この連帯の態度は、いつくしみの力を育む土壌です。ラテン語のsolidumは固い、確実性のことですが、それは皆が一つのことに属しているという信念を表わしています。つまり他の人の浮き沈みを自分の事として認知するのです。たとえこの言葉が単に人間的なレベルで用いられているとしても、キリスト者にとっては全生活に影響することです。「あなたがたはもはや自分自身のものではない」[17] と聖パウロがコリント人に言っています。これに対して現代の人たちは自己の自主性を脅かすこととして当惑するでしょう。しかし、近年の諸教皇はしばしば人類を特に教会を一つの「大きな家族」[18] と言い表しておられます。

「兄弟としていつも愛し合いなさい…。自分も一緒に捕われているつもりで、牢に捕われている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」[19]。各人の苦しみを直に知り、その全てに援助の手を差し伸べることは不可能だとしても、神の心で愛するはずのキリスト者が知らぬふりをすることはできません。「神は、私たちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」[20]。ミサ聖祭で、「御子キリストの御からだと御血によって私たちが養われ、その聖霊に満たされて、キリストの中にあって一つのからだ、一つの心となりますように」[21]と御父にお願いする時、沈黙のうちに「良い木々の生い茂る森のように、一致と交わりの中に、信頼し支え合い、確実性と幸いな簡素さの中に友情」[22] が育まれていることを実感します。

キリスト者における連帯はまず祈りによって実現されます

キリスト者における連帯はまず祈りによって実現されます。パドレがしばしば促されたように、苦しんでいる人のことが知らされたらまず祈ることです。多くの場合、仕事や犠牲にも言えることですが、この祈りの効果を見ることはできないでしょう。しかし私たちはそれらが「生命力として世の中を循環する」[23] ことを確信しています。こういうことからローマミサ典書には、種々の機会のためのミサ典文があり、あらゆるいつくしみの業への気遣いが示されています。みことばの祭儀を締めくくる共同祈願もまた「あらゆる教会についての心配を」[24]、そして全ての人を思い起こさせてくれます。それは、聖パウロと同じことが言えるようになるほどでしょう。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」[25]

連帯はまた、「消費が肥大し、あらゆる形態のいのちを虐待する世界」に対しして、「暴力や搾取や利己主義の論理と決別する、日常の飾らない言動によっても」[26] 実現されます。昔のことになりますが、多くの家庭で、床に落ちたパンを拾い上げ接吻したものです。こうして食べ物を得る苦労を認め、口にできることを感謝していました。「飢えている人に食べ物を与えることは」具体的に、まず、供されたものを喜んで頂き、わがままを避け、余った食べ物は工夫して活用することです。「渇いている人に飲み物を与える」と言うことから、多くの所で不足している水の無駄使いを止めるように促されるはずです[27]。「裸の人に衣服を」から私たちが率先すべきことは、衣服を丁寧に使い、兄弟同士で譲り合い、時には最新流行を取り入れないことなどです。

これらの小さなこと ― あるいはそれほど小さくない ― を放棄することで、創立者が若者たちに教えたように、困っている人たちへの施しが幾らかできるでしょう。また人道的な緊急事態に際してそれを乗り越えるための寄付もできるでしょう。「聖年の喜びが懐を痛めないなら、その喜びは本物ではありません」[28] と教皇様が言っておられます。

おもてなし:弱者を見捨てないこと

両親は、まず模範で「子どもたちに生き方(…)」について多くの事を教えることができます。「わがままを抑え、困っている人たちに手を差し伸べるため、寛大に自分の時間を割くことを教え、年齢にふさわしい人間的神的な連帯の熱意を表明している活動に参与するよう導くことができます」[29]

愛徳は秩序だったものであるように ― 遠くの人のことを気に掛けても周りの人たちの事には無頓着な人の業は偽りの愛徳ですから ―、わがままを克服することはまず自身の家庭において始めることです。老いも若きも皆、日常生活の中で一緒に住んでいる人のごく小さな不具合を見つけ出すように気を配らなければなりません。特に病気の家族や友だちに寄り添うことです。彼らの痛みを単に治療的な解決策を図るべきものであるかのように考えるべきではありません。「『老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください』(詩篇71,9)。これは、無関心にさらされたりすることを恐れる、いにしえの老人の叫びです」[30]。長足の進歩を遂げている医学のお陰で、病人の状態は見違えるほどよくなりましたが、周りの人は、病人を重荷と思うところで、病人に「お通りになるキリスト」つまり世話を必要としているキリストを見出すことができないでいます。聖ホセマリアが述べています。「病者はキリストです」[31]と。これは、「はっきり言っておく。(わたしの兄弟であるこの小さい者の一人にしたのは)、わたしにしてくれたことなのである」[32] と言う主の呼びかけを反映した思い切った表現です。

「いつ、病気の時や、牢におられるのを見て、お訪ねしたでしょうか」[33]。時として苦しんでいる人の中に神を見ることが難しいことがあります。不機嫌だったり不仲だったり、あるいは要求がましかったり自己本位だったりするからです。しかし病人こそは、その弱い状態ゆえに、この愛情を最も必要としているのです。神の光に照らされた病人は、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」[34] 変わり果てた痛々しい姿のキリストに似たものになります。

病人や老齢者、死にゆく人たち、また特に長期にわたる病床生活を余儀なくされる病人の世話には、かなりの忍耐と寛大な時間の使い方が求められます

病人や老齢者、死にゆく人たち、また特に長期にわたる病床生活を余儀なくされる病人の世話には、かなりの忍耐と寛大な時間の使い方が求められます。善きサマリア人には、「同じように約束やすべき事柄があったのです」[35]。彼のように、人間的にはもはや役立たないような人を切り捨てることになりかねない冷たい解決策を考えたりすることなく、すべきこととして手を差し伸べる人たちには、主が仰せになります。「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」[36]。弱者の世話のできる人のために、神はいつくしみに満ちた報いを準備しておられるのです。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、来なさい」[37]

ベネディクト16世の言葉です。「人間であることの真の基準は、苦しみと、苦しむ人との関係によって根本的に定められます。これは個人にも社会にもいえます。苦しむ人を受け入れず、同情を通じて苦しみを分かち合い、心から苦しみを担うことのできない社会は、残酷で非人間的な社会です」[38]。ですから病人は私たちに、目まぐるしい世の動きに踏みにじられている人間性を取り戻させ、事物よりも人間が、機能よりも存在が重要であることを思い起こさせてくれます。

ある人々は、神によって招かれて、あるいは自ら望んで、一日の大半を世に認められることを望むことなく、苦しんでいる人たちの面倒をみています。ガイドブックには載っていないけれども、彼らこそ本物の「世界遺産」の一部です。この世に生きているのはそのような弱い人たちを世話するためであることを、私たち皆に教えてくれるからです[39]。これこそは、お世話の、おもてなしの不変の意味合いです。

葬儀に参列するのはまれなことですが、最期を間近にしている人とその家族に寄り添うことはできます。ですから葬儀に参列することは常に社会人としての義務を果たす以上のことです。これらの行為の奥底に、永遠につながる正真正銘の人としてのあり方を垣間見ることができるでしょう。「ここでも、あわれみが、亡くなった人と生き残った人々に平和を与えます。憐れみはまた、神は死よりも偉大であること、神を信じていれば最期の瞬間も『また会う日まで』と言う瞬間に変わることを感じさせてくれるのです」[40]

創造: あるものを使って働く

戦火を逃れて移民する家族、失業者、麻薬中毒や快楽主義者、ギャンブル中毒などのような「現代社会における新しい奴隷制の犠牲者」[41]等、物的な援助を必要としている多くの人たちを身のまわりに見つけ出すことができます。一人では、どこからどのように始めたら良いか見当が付きません。しかし、もっとも身近なところの不都合を解決しようと思いついた小さなことがたくさんあるはずです。手にしているもので出来る人と一緒に ― 多くの場合ユーモアをもって、時間や経済的な手段あるいは公的な機関を活用して ― 始め、たくさんの良い結果を手に入れた経験があるでしょう。無償で励んだことには感謝がつきものですし、それは新たな取り組みの礎になることですから。いつくしみはいつくしみを生み出し[42]、それは伝染します。こうして、からし種のたとえが実現されます。「どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」[43]

必要性や可能性は、場所や個々人によって非常に違うものです。手の届く何かを期待して働き始めることがいいのです。度々、考えていたよりもずっと早く、手におえないと思われたことに扉が開かれるものです。そして、牢に入っている人や他の多くの中毒に罹っている人に心を向けることができるようになります。彼らは挫折し、世の中からはじき出され、見捨てられているのです。

多くの仕事があり、これらのいつくしみの業のための時間がないように思えるのですが、他者に心を向け、進路が定まらず落ち込んでいる人を助け出すための時間を工面している人がいます。ここで相乗効果が生み出されます。時間はあまりないが手続きや説明することなどに長けている人、組織作りには向いていないが時間にゆとりのある人、といろいろな人がいます。例えば退職者は、現役時代の経験を伝えることができますし、第二の青春を楽しむ展望が開けます。「全ての人は、知識とか資産とかに関係なく、より正義に適い兄弟愛に満ちた社会建設に貢献するための何かを持っています。具体的に、全ての人は、もっとも単純な人たちの寛大さと連帯に倣うことができます。この寛大な知恵者は、現代の世の中にもっとも必要な『インゲン豆に水をやる』ことを知っています」[44]

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創立者は、マドリードで司牧職を始めた頃を振り返り、新たな場所での様子を思い起こして話しました。「涙を拭ってやり、必要な手助けをし、愛情を傾けて幼子や老齢者、病人の世話をしました。多くの人が感謝しましたが…、中には中傷する人もあったのです」[45]。そこで、今では世界のあちらこちらで、キリスト者やそうでない人たちと力を合わせて実現している、多くの企画を考えていました。そしてそれは「quasi fluium pacis,平和の大河のように」[46] 進展させるべきことでした。「今の私にとって、それは夢、しかも祝すべき夢です。大都会の多くの場末を拠点にして、そこで、愛情を込めて、真正面から人々と向き合い付き合うようにしています。私たちは皆同じ人間なのですから」[47]


[1] 創世記3,7;知恵の書7,1参照。

[2] フランシスコ、2013年11月12日聖マルタでの説教。

[3] 第二バチカン公会議、「現代世界憲章」(7-XII-1965)22番。

[4] 1ヨハネ3,1参照。

[5] フランシスコ、大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」(11-IV-2015)、9番。

[6] 『知識の香』98番。

[7] マタイ25,36.44参照。

[8] マタイ 25,40.

[9] 第二バチカン公会議、「現代世界憲章」22番。

[10] ヨハネ15,13.

[11] フランシスコ、使徒的勧告「福音の喜び」(2013年11月24日)6番; 聖ヨハネ・パウロ二世、回勅「人間のあがない主」(1979年3月4日)9番参照。

[12] マタイ25,35-36参照。

[13] ルカ 6,36。

[14] フランシスコ、2016年3月13日お告げの祈り。

[15] 『知識の香』146番。

[16] 1950年2月14日手紙20番。

[17] 1コリント6,19。

[18] 例えば、福者パウロ六世の1978年5月24日国連での講演; 聖ヨハネ・パウロ二世の回勅「いつくしみ深い神」(1980年11月30日)4,12; ベネディクト十六世の2007年12月8日第41 回世界平和の日メッセージ、参照。

[19] ヘブライ13,1-3。

[20] 1ヨハネ3,20。

[21] ローマミサ典書、第三奉献文。

[22] フランシスコ、2014年11月28日講演。

[23] フランシスコ、「福音の喜び」279番。

[24] 2コリント11,28。

[25] 2コリント11,29。

[26] フランシスコ、2015年5月24日回勅「ラウダート・シ―」230番。

[27] 同上27-31番参照。

[28] フランス、2016年2月10日一般謁見。

[29] 『会見記』111番。

[30] フランシスコ、2016年3月19日使徒的勧告「愛の喜び」191番。

[31] 『道』419番。

[32] マタイ25,40。

[33] 同上25,39。

[34] イザヤ53,2。

[35] フランシスコ、2016年4月27日一般謁見。

[36] ヨハネ13,17。

[37] マタイ25,34。

[38] ベネディクト16世、(2007年11月30日)回勅「希望による救い」38番。

[39] フランシスコ、「福音の喜び」209番参照。

[40] フランシスコ、2014年9月10日一般謁見。

[41] フランシスコ、大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」6番。

[42] マタイ5,7参照。

[43] マタイ13,32。

[44] フランシスコ、2015年1月1日ビデオメッセージ。

[45] 聖ホセマリア、1967年10月1日団らんのメモ。

[46] イザヤ66,12(vg)。

[47] 聖ホセマリア、1967年10月1日家族の集まりのメモ。