正しい自己愛(適切に自分を大切にすること)

人格形成に関するシリーズ。今回の記事では、徳と欠点を含めて自分を知ることについて考えます。これは幸せになるために必要なことです。

人格形成
Opus Dei - 正しい自己愛(適切に自分を大切にすること)

 「あなたがたが(・・・)贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(ペトロ前、1、18~19)。こう言って聖ペトロは初代教会の信者たちにどれほどの価値を持っているかを思い出させている。それは、主に無限に愛され、贖われたということに示される。キリストはわたしたちを無償で神の子にすることによって、自信をもって生きることができるようにしてくれる。ある学生が聖ホセマリアした打ち明け話がそれを示す。「あの青年は今頃どうしているだろう。よく勉強するあのセントラルの大学生は話してくれた。『神父様が教えて下さったので、「私は神の子なのだ」ということを考えていましたが、ふと気がつくと「神の子だ」と、誇りを心に〈胸を張り、堂々と〉道を歩いているのでした』わたしは自信をもってその誇りを育てるよう勧めた」(『道』274)。

人間の偉大さを知る

 ここで言う「誇りを育てる」とは、どう理解すればよいのだろうか。むろん、自分にない徳を持っているかのように自惚れることでも、遅かれ早かれ苦い失敗に終わる根拠のない自信過剰に陥ることでもない。それは人間であることがどれほど偉大かを知ることにある。なぜなら人間は、「そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物」であるからだ(第二バチカン公会議、『現代世界憲章』24)。人は神の似姿に造られ、恩寵の助けによってキリストとますます一致していくことによって、その似姿を完成させるよう召されている存在なのだ。

 この崇高な召し出しが、キリスト教の信仰の一部である、自分を正しく愛することを理由付ける。信仰の光によって、私たちは各自の成功と失敗を正しく評価できる。自分の真の姿を冷静に受け止めるなら、この世界でいかにあるべきでいかに行動すべきかがわかる。その上、自分に自信を持つことができ、余計な恐れや落ち着きのなさや優柔不断などに流されることなく、隣人に対し開かれた態度をとり、新しい状況に適応し、楽観的見方と喜びを増すことができる。

 自分を肯定的に評価するか、否定的に評価するかは、自己認識と、各自が立てる目標をどれほど達成できるかにかかっている。この目標は、なりたいとあこがれる人物像、例えば、家庭で受けた教育や友達のコメント、世間で広がっている理想像などを通じて具体的に示される理想の人物像をもとにして描かれる。それゆえ、各自が何を気にしながら生きているかをはっきりさせることは重要である。なぜならそれらが高くて品位のあるものなら、よい自尊心を持つことができるだろうから。我々の文化が示す理想像は多かれ少なかれ我々の自己評価に影響を与えるので、人々がどんな人物像にあこがれているかを知っておくべきである。

モデルになる人物像を探すこと

 誤った成功の概念に取り付かれると、自分についてゆがんだ判断を下すということがある。例えば、何が何でも仕事上の成果をあげること、自己中心的な愛情関係を築くこと、快楽主義にどっぷり浸かった生活を送ることなどを成功と見なすときである。人から褒めてもらえるような、いくらかの成功を勝ち得たとき、自己を過大評価することがある。また逆に、目標を達成できなかったとき、あるいは他人から評価をされなかったと感じるとき、自己を過小評価することもある。これらの誤った自己評価は、大部分、どんな業績をあげたか、どんな物を持っているかなどで個人の価値を計る人々の意見を気にしすぎた結果である。

 このような危険を避けるためには、私たちが仕事や家族や社会の中でいつも何を気にしているか、またそれらがキリスト教的価値観に合っているかどうかを検討する価値がある。また、わたしたちは最も完全で首尾一貫したモデルはイエス・キリストであることを知っている。私たちの人生をイエスの人生に照らし合わせて見ることが、自分を評価する最良の方法である。というのは、イエスは、友達になれる気さくで身近な模範であるから。

神の光で自己を認識する

 自分を正しく判断するためには、自分をよく知ることが不可欠である。この作業は複雑で、ある意味で死ぬまで続く訓練が必要である。まず、100%主観的な物の見方 -私の判断、私の意見、私の感じ- を克服し他人の意見を考慮に入れる必要がある。私たちは自分の声や外見を知るためには録音や鏡を使わねばならないが、もしそうであるなら、自分がどんな人間であるかを評価するため私たち自身は最良の判定者ではないことを認めるのは、絶対に必要であろう。

 自己について反省することの他に、他人の意見に耳を傾けることは役に立つ。このことは、私たちに助言を与えることのできる人たちに心を開き、その意見を聞き、自分の理想に照らし合わせて吟味することによって達成できる。この意味で霊的指導はとても役に立つ手段である。また、わたしたちは、周囲にいる人たちや社会の流行や習慣からも大いに影響を受ける。つまり、ものごとを深く考える雰囲気の中で生活しているなら、内省をすることがたやすくなる。反対に、軽薄な生活スタイルをもつ社会なら内省の進歩は困難になるのだ。

 そのため自己を反省し、神が自分をどのようにご覧になっているかを考える習性を養うことがよい。念祷はそのために打ってつけの時である。なぜなら、念祷の中で私たちは神を知ると同時に、神の光で自分を知るからである。なかでも他人の助言やコメントを理解できるよう努めよう。時には、他の人の判断があまり客観的ではなく、ひょっとしたら深く考えずになされた、とくに神の御旨とは相容れない基準に従ってなされたと感知した場合には、その判断を却下せねばならない。誰に助言を頼むかを判別するのは大切だ。「賢者の叱責を聞くのは、愚者の賛美を聞くのにまさる」(コヘレト、7、5)。

 他方、私たちは、周囲の人の自己評価についてもそれなりの影響を与える。そのため、私たちの言葉は、誰もが「神の子」の尊厳を持っていることを認めた上で発せられるよう注意せねばならない。特に、責任ある地位や指導の任(子供を指導する親、生徒に対する教師など)についているなら、助言や示唆によって、または明確な言葉で矯正せねばならないときでさえ、人に各自がもつ価値を発見するのを手助けすることができる。これが、人が自信を持って成長できるための出発点であり、この考えに支えられれば人は希望をもって自分で成長することができるようになる。

あるがままの自分を受け入れる。主は私たちの全体を愛しておられる。

 神の光に照らして自分を見るなら、あるがままの自分を受け入れることができるだろう。それは徳も才能あるが同時に欠点もある存在で、後者は謙遜に認めなければならない。自分を正確に評価することは、人は皆それぞれ異なっていること、そのため私より賢い人、楽器の演奏が上手な人、より運動のできる人などがいることを認めることである。誰もがよい資質を持っており、それを伸ばすことができる。しかし何よりも重要なことは誰もが神の子であるということである。この事実を認めることよって、掛け値なしに自己を受け入れることができるようになる。不必要に他人と自分を比較して落胆にすることなどせずに、神と隣人に仕えたいと願うキリスト信者が持つべきポジティヴな自己愛は、人間がみな神の子であることを認めることを土台としている。

 要するに、もし神が私たちの欠点をも愛しておられることを思い出すなら、私たちは自分を受け入れることができる。欠点は私たちの聖化の道の一部である。主が最初にお選びになった12人の使徒も、わたしたちとそれほど違った人たちではなかった。彼らは「弱さを持ち、実行よりも口数の多い、月並みの人々でした。しかし、人を漁るものとするために(マタイ4、9参照)、ともに世の救済者・神の恩恵を司る者とするために、そのような彼らをイエスは召されたのです」(『知識の香り』2)

成功と失敗を前にして

 このように超自然的な見方をすると、私たちの人柄とこれまでの人生がより深く考察され、その意味を全体的に捉えることができる。永遠から物事を見るので、この世での出来事や個人の業績を相対化できる。何かの成功に喜ぶことがあるなら、そのことが聖性において成長することに役立ったかどうかこそ最も重要なことだと思い出す。このように振る舞う人は、キリスト教的な現実主義者にして、人間的にも超自然的にも成熟した人で、成功や賞賛によってのぼせ上がらないのと同じように、失敗を前にしても悲観主義に引きずられることはない。聖ペトロとともに善い業をなしたなら、それは「ナザレのイエス・キリストの御名によって」なしたと言うことができる。

 同時に、外的な困難や個人の不完全さのために思うような成功を勝ち取るのが容易ではないことを認めることも、正しい自負心を形成し、人間的に成熟し、学ぼうとする意欲をもつために役に立つ。人は自分の欠陥を認め、失敗から積極的な教訓を引き出すという態度によってのみ学ぶ姿勢をもつことができる。「失敗したというのか。そうではない、私たちは決して失敗しないのだ。あなたは全幅の信頼を神に寄せたし、そのうえ打てる手はみんな打った。確信しなさい、今その失敗こそ実は成功なのだ。神に感謝しなさい。それから、もう一度やり直すのだ」(『道』404)。私たちはこうして十字架の道を歩み始める出発点に立つ。十字架の道は、弱さの中での強さ、惨めさの中での偉大さ、屈辱の中での成長という逆説がこの上ない効果を発揮することを教える。

自信をもって働き、自己を正すことを恐れない。

人が自信をもって行動することができるのは、自分の成功を確信しているときというより、自分が神に愛されている子であることを知るときである。なぜなら成功の確信はしばしば裏切るからである。本当の自信を持っていれば、どんな決心にも伴う失敗したらどうしようという心配を抑え、不安によって縮こまるようなことがなく、新しいことに勇敢に挑戦する態度を保つことが可能になる。「分別とは、決してまちがいを犯さないことではなく、自分の誤りを正す態度のことです。問題を避けるという楽な方法をとるよりも、むしろ度重なる不手際をも意に介さず、的確な判断を求める努力をする、このような人こそ分別ある人と言えるのです。何かに取り付かれたかのように大慌てで仕事をしたり、おどおどしながら働いたりはしない。決心した結果、困難が襲ってくるかもしれないが、その責任は自分で負う。的外れなことになるのを恐れて善獲得のための努力をやめることもない」(『神の朋友』88)

 自己の限界を知った上で失敗から学ぼうとするならば、過ちを正すことによって、自己を改善し成長することができる。それは、次は周囲のものや人にもよい影響を与え、自己と周囲への信頼を増すことにもつながる。天の父の手に自己を委ねる人は自信に支えられる。というのは、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるようにともに働く」(『ローマ人』8、28)からで、罪を犯したときですら、主に赦しを願いその恩寵によって再度立ち上がるなら、謙遜の徳を増すことになる。このように自らを改めることは、改心のプロセスの一部を形成する。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めて下さいます」(『ヨハネ第一』1、8~9)。

不可欠の徳である謙遜

 つまるところ、自負心は謙遜の中で成長する。「謙遜の徳こそ、人間の惨めさと偉大さを同時に教えてくれる徳」(『神の朋友』94)だから。もしこの徳がなければ、しばしば自尊心が問題を起こすことになる。しかし、謙遜が培われると、現実的な見方ができ、正しく自己を評価する。つまり、わたしたちは欠点のない人間ではないが、腐敗しきった人間でもない。わたしたちは神の子であって、惨めさの上に思いも寄らなかった尊厳を持っているのだ。

謙遜によって自分をあるがままに知ることができ、恥ずかしがらずに他人の助けを求め、また他人に助けの手を差し出すようになる。畢竟わたしたちは誰でも神を必要としている。神はわたしたちの憐れみ深い父で、絶えずわたしたちを見守って下さる。わたしたたちは「神の中に生き、動き、存在する」からだ(『使徒言行録』17、28)。聖マリアの人生には、どれほどの自信と信頼が見られたことか。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く」(ルカ 1,49)と言うことができたのは、それは自分が「身分の低い、この主のはしため」(ルカ 1、48)あると自覚して生きていたからだ。聖母においては、謙遜の徳と自らの召し出しの偉大さが霊妙な仕方で混ざり合っている。