キリストのような人格

人格形成とキリスト教的な成熟に関する一連の記事を提供します。人格は日常生活にどのような影響を与えるか?人は変わることができるでしょうか?恩恵はどんな役割を果たしますか?

人格形成
Opus Dei - キリストのような人格

 「どうして私はあんな態度をとったのだろう」とか「なぜ私はいつもこうなのか」、あるいは「私は変わることができるのだろうか」といった疑問が頭をよぎることはないだろうか。時には「なぜあの人はあのように振る舞うのか」と他人に対して同じ疑問を投げかけることも。・・・私たちの目指すのは、霊魂の中でイエス・キリストが働かれるのを邪魔せずに、徐々にキリストに似たものになるというであるということを念頭に置きながら、この問題を深く考えてみたい。このキリストに似たものになるということは人間のあらゆる面に関わるものである。人間はキリストに近づくとき、キリスト教的召し出しに従って真に人間的な面を高める。というのは、イエス・キリストは真の神であり真の人間であるからだ。キリストの中に完成された人間を見ることができる。ヨハネ・パウロ2世も言っておられるように、「贖い主キリストは、(…)人間を人間自身に完全に表わしました。そして、それは――もしこう言えるなら――贖いの秘義の人間的な面であり、特質であります。そして人間もこの面において、自分の人間性の偉大さと尊厳と本来の価値を再び見いだします」(『人類の贖い主』、10)。

 洗礼によって与えられた新しい生命は、「わたしたちが皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(『エフェソ人への手紙』、4、13)ように呼ばれている。確かに超自然的なものが個人的聖性の決定的な要素であるが、このことは人間的なものを内的かつ必然的なものとして包含することを忘れてはならない。というのは、「神の子としての責任を果たそうと努力する私たちに、神は真に人間的であれとお望みです。頭は天にまで届かせ、両足はしっかりと大地を踏まえていなければなりません。キリスト信者として生きると言っても、人間であることをやめたり、キリストを知らない人々のもつ諸徳を身につけるべく努めたりしなくてもよい、とは言えないのです。完全な神であられ、同時に完全な人間であられるキリストにならえ、という主のお望みに応えるために日々努力しなければなりません。キリスト者とは主の御血であがなわれた人間、人間的であると同時に神的な生き方をするよう、キリストが強くお望みになっている存在ですから」(聖ホセマリア、『神の朋友』、75)。


人格陶冶の作業

 霊魂における恩恵の働きは、人間的な成熟、すなわち人格を陶冶する仕事と肩を並べて進む。それゆえ、聖性を目指すキリスト信者は、超自然の徳を培うと同時に、均整の取れた成熟した人間のもつ習性、考え方や動き方を身につけるよう努めねばならない。それは単に完全になりたいと望むことではなく、キリストの生き方に学びたいと望むことによってである。だから聖ホセマリアは次のように自己を究明するよう励ます。「子よ、人々があなたの中に探し求めているキリストはどこにおいでになるのだろうか。あなたの高慢の中だろうか。他人を威圧したいという望みの中だろうか。自分で克服しようとしないあなたの性格の欠点の中なのだろうか。あなたの頑固さの中なのだろうか。そんなところにキリストがおいでになるだろうか。絶対にあり得ないことだ」と。そしてこれに対する答えの部分は人格陶冶の作業をするに当たってのヒントを提供する。「個性を持たねばならない。それは賛成だ。しかしあなたの個性がキリストの個性と同じになるように努力しなければならない」(『鍛』、468)。

 各人のパーソナリティには、遺伝的で生まれつきの気質と言えるようなものや、後天的なもの、すなわち教育や個人の努力、人や神との付き合いによるもの、また無意識のうちに影響されることさえある他の多くの要因が影響する。その結果、様々な種類のパーソナリティ、あるいは性格が生まれる。例えば、外向的な人と内向的な人、情熱的な人と冷静な人、のんきな人と神経質な人など。このような性格は、仕事の仕方や人との接し方、日々の出来事のとらえ方などに現れる。これらの要素は、いくらかの徳の成長を助長したり、あるいはもしそれを制御することをしなければ、欠点を大きくしたりすることによって、人格形成に影響する。例えば、進取の気性に富むという性格は、勤勉さを培うのに役に立つが、しかるべき努力をしなければ、移り気や活動主義という欠点に陥る危険もある。

 神は私たちのパーソナリティを考慮に入れながらが聖性の道に導いて下さる。各自のあり様は神が鍬を入れられる肥沃な土地のようなものと言える。私たちのするべきことは、忍耐と喜びを持ってその土地から神の恩寵の妨げとなる雑草を抜き取り石を除くことだけである。そうすれば、「あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実りを結び」始めるだろう。もし一人一人が、聖霊の働きに抵抗せず、キリストの御顔を反映するパーソナリティを作り上げようとするなら、各自の個性をいささかも損ねることなく、神から頂いた才能を十分に利用してそれなりの成果を上げることができるだろう。なぜなら、「天国の諸聖人が、それぞれ独自の個性を備えているように、あなたたちも各々異なっているはずである」からである(『道』947)。

 私たちは各自の性格を磨き強めてキリスト教的な人格を形成する必要があるとはいえ、何か超人のようなものに変身することだと考えてはならない。実際、モデルはいつもイエス・キリストで、イエスは私たちと同じ人間の本性をお持ちになるが、それは恩寵によって高められ平凡さの中に完成された人間性である。もちろん、聖母マリアにもすばらしい模範を見ることができる。彼女には、人間的なものが余すところなくある。しかし、それは平凡さに包まれている。マリアのよく知られた謙遜と素朴さ(この二つはキリスト教の伝統のなかで最も評価された資質かも知れないが)は、彼女のすべての子供たちに対する愛情と優しさ(よい母親のもつ徳)と並んで、その事実をこの上なく証明している。最高の被造物(あなたより優れているのは神だけです。『道』496)であるマリアは、あまりにも人間的で、あまりにも魅力的な女性、至高の貴婦人であるのだ。


人間的成熟と超自然的成熟

 「成熟」という言葉は、旬であること、用意万端整っている状態にあることを指し、そこから到達すべき段階に達していることを意味する。また成熟した人は自己の勤めを果たす。そのため、最もよい模範が主の生活に見いだされる。福音書の中のイエスを観想し、その人との接し方、苦しみを前にしての剛毅、御父から受けた使命を果たす際の決然たる態度を学ぶなら、成熟とはどういうものかを理解できるようになるだろう。

  同時に、我々の信仰は様々な文化に見いだされる良いものを吸収する。それゆえに、適切に浄化しつつであるが、古典文化が教える人間的成熟に関する基準を学ぶことは役に立つ。それは、時と場所によって強度ややり方は様々であっても、何世紀にもわたってキリスト教がしてきたことである。例えばギリシア・ローマ世界は、成熟した人間のもつべき徳として知恵と賢慮を置いた。あの当時のキリスト教の哲学者や神学者は対神徳の優越性を示し、なかでもパウロが「完全性の要」と呼んだ愛徳を他のすべての徳に形を与えるものとして示すことで、この二つの徳の概念をさらに豊かにした。

 現在では人間的成熟についての考察は、近代科学が提供する様々な見方によって豊かになっている。それらの結論は、キリスト教の人間観と対立しない人間観を基盤としている限り、大いに役に立つ。例えば、成熟度を計るとき、知的面、情緒面、社会的面の三つの面がよく区別される。知的な成熟度を示すものとしては、自分についての冷静な評価(自分について現実に近い評価を下すことは、自分自身に対して誠実であることの結果である)、正しい人生観、明確な個人的目標を立てると同時に(深さにおいても強さにおいても)無限に開かれた展望をもつこと、調和のとれた価値観、確固とした道徳観、自分と世界を前に健全な現実的味方を堅持すること、問題が起きた際に落ち着いて考え分析できる、創造性とイニシアティヴを持つこと、など。

 情緒面における成熟を示す特徴には、網羅するつもりはないが、次のものを挙げることができる。失敗をしたとき極度に気落ちすることなく、他方成功を前に現実を見失うことなく、人生の出来事に適当な反応をすることができること、自己をフレクシブルにかつ前向きに制御できる力、隣人に対して自己を与え寛大になることができる、決定や約束をしっかり守ることができる、困難を前にして落ち着きを失わす挑戦できる、楽観的で明るく人好きのする性格とユーモア。

 最後に社会的面での成熟さの部分としては、隣人に対する誠実な愛情、隣人の権利に対する尊敬と、その必要性を見つけ助けたという望み、異なる意見や価値観や文化的側面の人に対し偏見を持たずに理解しようと努めること、周囲の支配的な文化や圧力団体や流行に対して、批判的な目をもち流されないこと、人の言うことを聞き理解する能力、分け隔てなく他人と協力することができること。


成熟への道

 これらの特徴を次のようにまとめることができるだろう。つまり、成熟した人とは人生において明快で調和の取れた高度な企てを計画・実行でき、かつその実現のため必要な積極的な態度を容易にとることができる人、と。いずれにしても、成熟した人になるためには、様々な状況や段階からなるプロセスを経なければならない。人間としての成長は、時間がかかり段階的であることが普通である。ただし、個人の人生において目を見張るような飛躍があることもある。たとえば、初めての子供が生まれることは、ある人には新しい責任を自覚させ、その人生を画期的に変化させることがある。あるいは、厳しい経済状況を乗り越えた後で、自己の人生にとって何が本当に重要なのかを深く考える機会を持つこともある、など。

 この成熟に向けた道において、恩寵がいかに人を変えるかが浮き彫りになる。最も著名な男女の聖人たちの人生をざっと見るだけでも、彼らの中に高い理想、自己の確信の確実さ、自己についての最も正確な評価である謙遜と同時にあふれるような創造性や自主性、実行に移された献身や愛の能力、人に伝わる楽観的な見方、あらゆる人に開かれていること(結局、使徒職の熱意)などが認知できる。その明らかな一例が聖ホセマリアである。彼はまだ青年のときから恩寵のおかげで成熟した人格が形成されていったことに気づいていた。自分が、困難の中で、尋常ではないほどの安定した気持ちがあることに気がついていた。「どうも主は私の魂に平和というもう一つの特徴をお与えになったようだ。平和をもち、平和を与えること。私が指導したり話したりする人たちの中にそれが確認される」(『霊的な覚書』1095番)。彼には詩編118の言葉「私は老人より分別がある。あなたの掟を守るがために」を当てはめることができた。だからといって、普通は成熟した性格を身につけるには時間と失敗と成功がいる。それらは神の摂理に織り込み済みである。


恩寵と時間を勘定に入れる

 たとえある人が成熟に達したと言える時があるとしても、各自の人格を磨く勤めは一生続く。自分がどんな性格なのかを知りそれを受け入れれば、少々の失敗に落ち込むことなく楽観的にこの勤め続けていくことができる。これは中途半端な状態と妥協することとは違う。それよりもむしろ、英雄的に聖性を目指して生きるためには、すでに完璧な人格を持っていることも、理想的な生き方を望むことも必要ではなく、ただ自己の失敗を認め赦しを願いつつ毎日忍耐強く戦うことを必要とすることだと理解することである。

 「キリストの英雄たちの本当の伝記は私たちと同じなのです。彼らとて戦っては勝利を得、また戦っては敗北を喫したのです。そして敗れたときは、痛悔の心をもって再び戦いに赴いたのです」(11、聖ホセマリア、『知識の香』76)。自己のあり方を磨くのに、主は長い時間をかけてのたゆまぬ努力を念頭に置かれる。今列福調査が進行中の神のしもべドラ・デル・オヨの晩年、ある人が彼女に言った言葉は参考になる。「ドラ、あなたを見た人が今あなたを見たら、同じ人とは思わないでしょう」と。つまり、長年の努力の末、激しい性格の角を削り穏やかなものにすることでバランスのとれた人となるに至ったのである。この勤めを遂行するにあたって、私たちはいつも主の助けと聖母の母としての配慮に頼ることができる。「聖母はまさにこのことをして下さる。私たちが人間的にも信仰の面でも成長することをお助け下さる。また私たちを強くし、軽薄で表面的な信者のままで十分だという誘惑に一歩も譲らず、責任感をもって生き、ますます高い理想に向かうことができるように助けて下さる」(教皇フランシスコ、2013年5月6日の説教).

 次号から人格の形成に関係する様々な要素を取り扱う予定である。キリスト教的成熟のいくらかの重要な特徴を示し、聖霊が各自の協力を得て、魂の中に建てようとされる建物とはどんなものかを見る。そして、その基礎がとういう特徴を持つか、その構造が堅固になるために何をしなければならないか、ひびが入ればどういう処置を施さねばならないかを考察しよう。イエス・キリストの像を鮮明に写す人格を作るとは、なんと魅力的な挑戦であろう。


J.セセー