結婚の神秘

オプス・デイでは家族のためのマリア年を過ごしているが、このたび始まる人間愛に関する論説の連載を読んでいこう。初回のテーマは、結婚である。

結婚という人間の現実

結婚は“自然の”現実であり、男と女というペルソナの存在に呼応するものである。その意味で、「神ご自身が婚姻の創設者である」(GS48,1)と、教会は教える。「結婚への召し出しは創造主によって造られた男女の本性に刻みこまれている」(『カトリック教会のカテキズム』1603番)。

根本的なことであるが、結婚を単なる文化的な所産とみなすわけにはいかない。というのも、結婚のみが男女の結合の尊厳を十全に表しているからである。結婚の特性は、宗教や社会制度、法律、人的権限によって定められたのではなく、また時代の流行とか嗜好にそって結婚や家族の様々な“形態”が選ばれ形成されたのでもない。

神の計画において、結婚は人間の本性に“即した”ものであり、人間の本性を反映している。

結婚という特別な関係

結婚は、ある程度持続的な共同生活を望む二人が合意を交わして生じるようなものでもない。それは“配偶者同士の契り”である。すなわち、ひとつの家族の基礎であり源である夫婦となるために、一組の男女が相互に授受する、自由な行為のことである。

この“全面的”相互授与が、結婚を成立させる鍵である。なぜなら、その相互授与から結婚の本質的特性と固有の目的が生じるからである。

したがってそれは、撤回不能の“自己譲渡”(献身)である。夫も妻も、それぞれ配偶者としての立場をわきまえ、決して自分が自分の主人であろうとはせず、夫も妻も自分は相手のものであるであうかのようにふるまう。自分は相手に“尽くす義務がある”。つまり自分たちが“結婚している”だけでなく、お互いがまさに“配偶者なのである”。自己の独自性(アイデンティティー)は、連れ合いとの関係によって規定され、その絆は“死によって二人が切り離されるまで”続く。この“二人の一体性”は、この世のいかなるものより緊密である。その一体性のゆえに、夫であり妻であることをやめることはできない。“一体(一つの肉)”(マタイ19,6)となったからである。

配偶者間でいったん絆が生ずれば、その絆はもはや自分の自由な意思にではなく、結婚の本性に依拠し、──最終的には、“二人を一体とさせた”創造主なる神に──依拠することになる。その自由は夫婦で“あること”か“ない”かの自由でなく、夫婦の真実にかなうように努めるか、夫婦の真実にもとる生き方をするかの自由となる。

結婚を特徴づける献身──自然な“全面性”

実に、自己の《全面贈与》および《全面受容》を意味する“献身”のみが、人格の尊厳の要請に対して応えることができるのである。

この夫婦間の全面性は、単なる“排他的な”関係に留まらず、その夫婦が生存している限り、二人が同時に、あるいは片方が変えてしまうことはできない。

それはまた、夫婦が将来においても各々自己譲渡と受容を行なうことを意味する。つまり人は時と共に成長するのだから、一時の出来事で終わるわけではないのである。永久に続く全面的な献身こそが(人格の尊厳に)ふさわしい。この全面的な献身とは、配偶者双方の自由を肯定することである。

全面的であるとは、さらに、夫婦がそれぞれ自己の人格を明け渡し、相手の人格を受け取ることを意味する。それはいくつかの面を選んで与えることではなく、配偶者としてのあらゆる側面を授受することである。

具体的にいえば、結婚とは性の違いと補完に基づく男女の結合であり、──偶然の結果としてでなく──いのちを伝播するための(“全面的に”与え尽くすために必然的な)自然の道である。結婚はその本性から豊かな実りをもたらし得るもので、それがおのずから家族をつくるための基礎となる。

十全な人間としての意味で、男女相互の献身、独占的かつ永続的な実り多い献身が、男女間の愛の特長である。

結婚について昔からキリスト教で深く考察され、結婚の“本質的特徴”(一致と不解消性)および結婚の“目的”(夫婦と子供の善益のため)と呼ばれてきたことは、“結婚のモデル”を独断的に押しつけるためではなく、むしろ、“初めから”(マタイ19,4.8参照)の真理を徹底的に表明しようとしたからである。

聖なる結婚

男女の結婚の誓約に基づく、いのちと愛の親密な共同体は、人格の尊厳と愛への根源的な召命を反映しており、結果的に幸福への召命を表している。結婚は本来的に、ある種の“神聖な”性格をもっている。そのため教会は“結婚の神秘”(エフェソ5,22-23参照)について語るのである。

神ご自身が、聖書において、人間に対する神の愛を知らせ表すために、結婚のイメージを用いられる(『カトリック教会のカテキズム』1602番参照)。神に似せて造られた男女の一致は、神とのある種の類似を意味しており、われわれの直接的知覚に及ばない神の愛の神秘を垣間見せてくれる(教皇ベネディクト十六世,『神は愛』11番)。

しかしながら、被造物である人間は、罪によって大いに損なわれ深い傷跡を残した。そして結婚の意味も不明瞭になり混乱をきたした(『カトリック教会のカテキズム』1608番参照.)。結婚の真理に関する理論的・実践的誤謬が生じたのはそのためである。

それにもかかわらず、“創造の真理”は依然として人間の本性に根差し存続している(同)。つまり、善意の人たちは、男女の結合を低級のものとみなす考えに“甘んじたくない”と感じている。このような愛についての真実の感覚があれば、キリストにおいて頂点に達する救いの計画について、──困難を経験するとしても何らかのかたちで──人々に徐々に知らせその計画を実現させるという神の働きかけが可能になるのである。

イエス・キリストによって贖われた結婚

イエスは宣教の中で、結婚の原初の真理を新たに決定的に教えられた(マタイ19,3-4参照)。堕罪の結果、人の“心は頑なに”なり、配偶者として求められる献身の意味を“充分に理解し”、それを、“実行可能なこととみなす”ことができなくなっている。

しかし、“時が満ちる”におよび、神の子は、「結婚の本来の真理、《最初の》真理を明らかにし、人々を心のかたくなさから解いて、この真理全体を理解できるようにされたのです」(聖ヨハネ・パウロ二世,『家庭──愛といのちのきずな』13番)。なぜなら、夫婦は「キリストの後に従い、自分を捨て、自分の十字架を背負ってこそ、はじめて結婚の本来の意味を“受け入れ”、キリストに助けられながらその教えに基づいて生活することができるのです」(『カトリック教会のカテキズム』1615番)。

結婚──新約の秘跡

受洗者同士の結婚を秘跡として制定するにあたり(『カトリック教会のカテキズム』1617番参照)、イエスは創造と旧約の掟のもとでの結婚の意義に、完全な“新しさ”、超自然的意義をもたらし、内的に閉じていた世界に十全な意味をもたらされた(聖ヨハネ・パウロ二世,『家庭──愛といのちのきずな』13番参照)。

婚姻の秘跡は、キリストの聖化の御業を夫婦が受けとり──受洗者が個人的に受けとるだけでなく──キリストと教会が結合した(エフェソ5,25-27参照)新約において、“二つの一致”に与るための道に変わったのである。その結婚の秘跡を第二バチカン公会議は、「キリストと教会の間の、愛の契約にかたどられ、それに“あずかる”」ものと語っている(『現代世界憲章』48番)。

この意味において、夫婦とキリストとの一致は、“付帯的な”もの(すなわち、結婚が人生のひとつの状況に過ぎないかのようなもの)ではなく、聖化する秘跡の効力によって、また結婚の現実そのものによって、もたらされる“本来的な”ものである(『カトリック教会のカテキズム』1638.番以下参照)。神は夫婦を訪れ、共に留まられる。そして夫婦の愛と一致が効力をもつために神の愛が保証人として人間の間に留まり、現存されるのである。

さて、結婚の秘跡は本来、“婚礼”の祭儀で終わるのではなく、“婚姻”すなわち、“二人の一致”であり、キリストと教会との一致の“恒久のしるし”(不解消の一致)である。それゆえ秘跡の恩恵は、夫婦の生涯を通じて伴う(聖ヨハネ・パウロ二世,『家庭──愛といのちのきずな』56番参照)。

こうして「キリストの生命にあずかるということも特有のことです。夫婦愛は、(…)人格のすべての要素を含む全体に及んでいるのです。(…)一言でいえば、それらは自然な夫婦愛の典型的な特徴ですが、それを純化し強めるばかりでなく、キリスト者固有の諸価値を表現するところまで高めていく新しい意義を持っています」(聖ヨハネ・パウロ二世,『家庭──愛といのちのきずな』13番)。

神の計画の中で普通の生活がもつ価値を理解できるようにと、神がお与えになった恩恵と信仰の光によって、聖ホセマリアはとても早い時期から結婚の意味について考察し、結婚がとりわけキリスト信者にとって真の召命であることを理解した。「結婚した人は、その一致の中で、結婚生活そのものと自己を聖化するように召されたといえます。それゆえ、家庭生活を無視して霊的活動を築こうとするのは大きな誤りに陥ることになります」(聖ホセマリア,『知識の香』23番)。