家庭は成長の場(2)

「家庭は成長の場」の後半では、マナー、規律、ユーモアのセンス、祈りの生活などの家族で習う要素を取り上げます

人格形成
Opus Dei - 家庭は成長の場(2)

 昔の合戦について暖炉のそばで熱い議論が交わされている。一人が誰も思ってもみなかった発言をした。「そういった武勲に引けを取らないような、困難でかつ輝かしい勝利や戦いや偉大な犠牲や英雄的な高貴な行為(一見すると、軽率で矛盾に満ちたように見えるが)がある。それが難しいのは、それについての報道もないしそれを見る観衆もいないからだ。しかし、毎日社会の最も隠れた隅っこで、小さな家庭の中で、大勢の男女の心の中で行われている。ここれらの目立たない戦いのどんなものでも、もっと反抗的でひねくれている人にも生きる喜びを取り戻させ、人間への信頼と希望で満たすことができる。

人類の将来は外交の重要な条約によってだけ決められるのではない。日々の戦いにおいて、平凡な家庭のなかの「忍耐強い愛」の仕事よって作り上げられる。

 人類の将来は外交の重要な条約によってだけ決められるのではない。日々の戦いにおいて、平凡な家庭のなかの「忍耐強い愛」(教皇フランシスコ、2013年10月27日の謁見)の仕事よって作り上げられる。生涯にわたる人間の成長、特に「中に向かって成長する」(聖ホセマリア、『道』294)ためには、どうしても多くの人の協力が不可欠である。みんなが一緒になって、霊魂の帆に神の息吹を受けながら、神のペースで前進するのである。

同じ空気を呼吸する

 キリスト教的な家庭では、仕事や心配、成功と失敗などは皆で分かち合う。皆がすべてに関わり合い、同時に一人一人の独立も大切にされる。子供たちはのびのびと生きるように教えられるが、各自の好き嫌いの中に閉じこもらないように注意される。家庭では、みんなを結びつけるものが評価される。それは、みんなが心地よく呼吸でき、それによって成長しいくことができるようになるきれいな空気のようである。

 家族のよい雰囲気を維持するという仕事には、全員が重要な役割を持つ。最も小さい子供も例外ではない。そのため、小さい子供たちにもその年齢に見合った責任を分担させるのがよい。それは、彼らが自己中心にならず、家はみんなの協力で支えられることを理解させるためである。たとえば、庭に水をやること、テーブルの準備をすること、布団を敷くこと、自分の部屋を片付けること、下の兄弟の面倒を見ること、買い物に行くことなどなど。また、少しずつ家族の話し合いにも参加させていくこともよい。家族の計画を押しつけるのではなく、彼らの意見を聞きながら決めていくことで彼らにも魅力のある計画となるだろう。こうすれば、誰も蚊帳の外に置かれることはなく、他の人々にも関心を払う開放的で寛大な態度を涵養できるだろう。

ジャングルを開拓したいなら、まず自分の庭から始めよう。つまり、「自分の部屋で、自分の家で、自分の職場で」表される「日常生活のエコロジー」から手をつけるのだ

 愛情があれば、他の人の生活に歩調を合わせることができる。そのためには、休暇を一緒に過ごすことや、人を結びつけ多くのよいことを楽しむことを可能にする活動を一緒にすることなどは役に立つ。逆に、苦しいことに直面するとき、愛情はその重荷を分け持つようにさせる。「互いに重荷を担い合いなさい。そのようにすれば、キリストの律法を全うすることになります」(『ガラテア』 6,2)。自分の家では誰も他人のように生きることはできない。つまり、自ら進んで何ができるかを考え、目を上げて周囲の人に注意を払う必要がある。他の人たちは何が好きなのか、どういう計画を考えているのか、どういう友達がいるのか、仕事は何か、何か心配ごとがあるのか、など。これらのことを考えるには時間が必要である。しかし、まさにこの時間こそ、父親が子供に与えることのできる、また子供が親に与えることのできる最も価値あるものなのである。

 キリスト教的家族にも規律や秩序が必要だ。しかし、その規律は優しさを感じさせるものである。そうであれば、子供は年上の家族の背中を見ながら、自然に少しずつ学んでいく。子供をしかるときには、愛情を裏に秘めた丁寧な仕方でするべきである。それだけでなく、なぜしかるのかそのわけを説明し、「自分の不機嫌を他の人々にぶちまけない」(聖ホセマリア、『知識の香』174)ように努める。はっきりと物を言うべきときもあるが、子どもが徳や価値観を本当に身につけるのは、親がそれを実践しているのを見るときであることを忘れてはならない。日常生活の中で親が剛毅、節制、慎み、質素などを実践しているなら、子供はそれらを本当に大切なものと自覚するだろう。彼らにとって、それらの徳は空気のように当たり前のことになるからだ。これは特に愛情の教育(性教育)において言える。つまり、両親が日常生活の中で細やかな愛情を互いに示すなら、―もちろん夫婦の間の親密さの中にしまっておくべきものは別として― 子供たちに性の正しい積極的な意味を理解させることが容易になるだろう。

 「親であるあなたに忠告するとすれば、何をおいても次のことを言いたいと思います。あなたがたが信仰に従って生きようと心を配っていることを子どもたちが感じとるように。子どもは、小さいときからすべてを見、判断しています。神が単に口先だけではなく、行いにも現れるように努力してください。そしてお互いに信頼し合い、心から愛し合いなさい。これが子どもたちを真のキリスト信者に育てる最もよい方法なのです」(『前掲書』28)。

写真:Ismael Martínez

 ありがとう、すみませんが、ごめんなさい

 明るく楽しい家庭には、うちとけた単純な人間関係が存在する。同時に親しいからといって、細やかさに欠けた無礼な態度を取るわけではない。私たちは誰でも欠点があり、してはいけないことをしたり、他人を傷つけたりする可能性がある。他方、他人の無理解や誤解を前にしても、恨み心を抱かず、気にしないという能力も持っている。親子、兄弟の間など、あらゆるレベルで、ポジティブな面、分離させるのではなく一致させるよい面に目をやるよう努める。どのような共同生活でも、時々口論やけんかが起こるが、その日のうちに仲直りするべきである。「よく聞いてください。夫婦げんかをしたことがありますか。子どもの皆さん、皆さんは両親とけんかをしたことがありますか。大げんかになったことがありますか。それはよいことではありませんが、本当に問題なのではありません。問題なのは、その気持ちのまま次の日を迎えることです。けんかをしたとしても、家族と仲直りをしないで一日を終えないようにしましょう」(教皇フランシスコ、2015年5月13日の謁見)。

 本当に隣人を愛する人は、隣人を理解し赦すことができる。いや、理解し赦すことを必要としていると言える。そういう人はこの振る舞いを家庭から社会に伝えていく。ジャングルを開拓したいなら、まず自分の庭から始めよう。つまり、「自分の部屋で、自分の家で、自分の職場で」表される「日常生活のエコロジー」から手をつけるのだ(『ラウダート・シ』147)。家庭とは、「人格的成熟における調和のとれた成長を可能にする全人的な教育を受ける」場である。「家庭の中でわたしたちは、無理強いせずに頼むこと、受けたことに対する心からの感謝の表現として『ありがとう』ということ、攻撃や強欲を慎むこと、傷つけてしまったらゆるしを請うことを学びます」(『前掲書』213)。

人は信頼している人の前では、自分の本当の姿をさらけ出しやすくなり、そのために容易に否定的なコメントが出てくることがあることも思い出すのがよい

 こういう態度を身につけるなら、家族生活に起り得る問題を相対化でき、違った状況ならもっと簡単だろうにという幻想に陥ることを免れる。わたしたちには外の人のことを理想化する傾向がある。均衡のとれた精神の持ち主でさえ、友人や知人のよい点を過大評価し、身近な家族の欠点や過ちを必要以上に厳しく見ることも珍しくない。我々がこのような傾向を持っていることを自覚し、矯正することは極めて大切である。たまにしか見ない人が笑顔や親切な行為を示したとしても、それが彼の常の姿というわけではない。逆に兄弟姉妹が、いやな一日を過ごしたりよく眠れなかったりしたため、無愛想な態度をとったとしても、それが彼らの真実の姿でも、心中の思いを表しているのでもない。それだけでなく、人は信頼している人の前では、自分の本当の姿をさらけ出しやすくなり、そのために容易に否定的なコメントが出てくることがあることも思い出すのがよい。そのような状況では、真の愛情を持つ者は、相手の苦しみを理解しようと努める。時には、その人の愚痴や不満の聞き役を買って出ることも敢えてするだろう。

 人の成長ということは、それぞれの困難を伴う諸段階を経ながら達成されるもので、多大の忍耐が要求される。人は一朝一夕に成熟するものではない。とりわけ思春期の子どもは、ある程度の期間、家庭の空気をぴりぴりさせ、時には対立を作りだし、大人も子どもも緊張した雰囲気に包まれる。しかしそれも時間が解決してくれる。その危機を上手に乗り越えるなら、それが終わると家族はより強固になる。水は河床に戻るだけでなく、より豊かにきれいな水になるのだ。

普通は両親が子どもに信仰の道を教える。神の御摂理は、時に子どもを使って父親や母親が信仰の素晴らしさを発見させることもある

 自然の法則に従って、思春期に入った子どもたちはより大きな自由を主張し始め、家族とは離れて、閉鎖的な友人グループを作り、一人で行動しようと試みる。しかし、たとえ本人は認めなくても、彼らは両親のことを忘れたわけではない。それゆえ、親は強権的な振る舞いを避けるようにし、話しやすい友達のような関係を築くことが重要である。親は子どもが自分で決定するように励まし、気をつけるべきことを示す。どこに危険な岩礁があるかだけでなく、行く価値のある港の方向も教えるのである。確かに言葉や規則を作ることも役に立つが、こういうことは多くの言葉や規則より、行いの模範によってよりよく伝わる。

 いずれにして、子どもを信用することが重要である。というのは、相互の信頼関係があるところでのみ自由は成長するからだ。聖ホセマリアは次のように言う。「時にはだまされるのもよいでしょう。子供への信頼があれば親の信頼を濫用したことを、子供自身が恥じて改めるときがくるからです。しかし自由もなく、信頼されていないと感じるような状態なら、子供はいつも嘘をつきたい衝動にかられるのではないでしょうか」(聖ホセマリア『女性』)

一緒に祈る家族は一致を保つことができる

 家族はまた神とのつきあいを学ぶ場、祈りの学び舎でもある。聖ホセマリアは子どものとき母親から習った祈りをとても大切にしていた。「母親なしには、新しい信者は生まれません。それだけでなく、信仰そのものからも、純粋で深い温かみがほとんど失われてしまいます」(フランシスコ、2015年1月7日謁見)。普通は両親が子どもに信仰の道を教える。しかし逆の現象も珍しくない。神の御摂理は、時に子どもを使って父親や母親が信仰の素晴らしさを発見させることもある。

 多くの場合、家族が一緒に祈ることは可能であり、有益である。「ともに祈る家族は一致を保ちます」(聖ヨハネ・パウロ1世、使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』41)。気取りのない普段着の信心行為は家族の内部だけでなく外部をも照らし、知らず知らずのうちに日常生活の他の活動にも影響を及ぼしていく。あちこち動き回る子どもたち、家の多くの仕事などによってときどき気が散ることがあってもかまわない。わたしたちの側でできるだけの努力をしているなら、天の神様はこれらの注意散漫の祈りをご覧になって微笑んでくださるに違いない。

 忠実な夫婦の家庭からは新たな忠実な夫婦になる若者が生まれる。また神の召命に答え、独身の召しだしの道を進む多くの若者も生まれる。異性への愛も神への愛も家族の中の愛情と競合するのではなく、むしろそれを強化する。いつも、人生のいかなる場面でも、わたしたちの体には同じ血液が流れている。たとえ色んな仕事や義務によって遠くに離れて暮らしているとしても、家族は一致している。成熟の一つの印は、妻や子どもへの義務と、自分の両親や兄弟への愛情を両立させる能力である。それは時とともに身につけていくものである。この二つの家族は祈りによって助け合う。それは単なる慰めではない。「兄弟に助けてもらう人は強い城のようだ」(格言の書、18、19)。

家庭から周囲の世界に

 家庭という豊かな泉は、家庭内で枯れ果ててしまうのではない。人は自分を忘れて回りに奉仕することによって成熟するのと同じく、家庭も外の世界に開くことで成長する。キリスト教的家庭は、成長のために必要な家族の雰囲気とプライバシーを守る扉を持つが、それは息ができないような堅苦しさでも、外の世界に目をふさぐことでもない。

父親は忍耐強くなければなりません。待つよりほかに何もできないときもしばしばあります。祈りながら忍耐、優しさ、寛大さ、そして慈しみをもって待つのです

 それゆえ連帯の精神はキリスト教的家族の使命の重要な部分である。つまり、創造性をもって自らの殻を破り、最も困っている人々を探しに出て、社会の文化や教育の発展のために働き、共通の家である地球の保護などにも気を遣うのである。人類が直面する困窮は多種多様で、多くの場合、あるイデオロギーや少数派が緊急の課題として声高に訴えるものとは別物である。家のない難民を助けようとする家族、すでに子どもがたくさんいるのに新たに養子を引き受ける家族、英雄的に経済的困窮に立ち向かい、自分の家族や他の家族のために自己を犠牲にする親たち、他の家族を助けるために働く子どものない夫婦、など、なんと素晴らしい模範がわたしたちの周りに見られることだろう。最もよいことに、「すべては家族に返ってくる」。つまり、これらの活動で一番利益を受けるのは家族自身なのだ。そして、このような家族によって社会は変わっていく。無償で誠実な愛を学ぶ場である家族は「自己中心的な個人主義の蔓延への特効薬です。」(フランシスコ、2015年1月7日謁見)。「常にひとのことだけを考える。――このような、言わば〈健全な心理的偏見〉」(聖ホセマリア、『鍛』861番)の中で育った人は、他人の話に耳を傾けること、理解すること、一緒に生活すること、自分の兄弟である人間の具体的な問題を解決することに喜びを見いだす。

家族は孤立していない

 家族がその成員に、また教会と世界にどれほどの善をなすことができるかを考えると心が高鳴る。同時に、現代の家族が困難な時期に遭遇していることも誰の目にも明らかである。しかし、家族はひとりぼっちではない。多くの人々が、子どもの教育の仕事において親を助けるために時間とエネルギーを費やしている。学校、若者のためのクラブ、その他の多くの活動、それらは若者の教育や高齢者の世話にとって、時には欠くことのできない支えとなる。また家事(母親だけの仕事ではない)を支えることも、キリスト教的家庭のもう一つの使命である。それゆえ、この分野での知識と経験を伝えるために尽力する人たちは、「多くの大学教授よりも教育的にははるかに有益なことができるのではないかと私は思っている」と聖ホセマリアは言っていた(聖ホセマリア『女性』)。

 この小論を終わるに当たって、子育てに多大の時間とエネルギーを費やしたのに、結果が思わしくなく、やり方を間違ったのではとか、もっとできたはずではないかという後悔の念に打たれる場合を取り上げよう。実際、悲しいことだが、なんと多くの親が可能な限りの善意をもって子どもを育てたのに、成長した我が子が肉体的精神的問題を抱え、あるときには信仰から離れたり乱れた生活に陥ったりするのを見て苦しんでいることか。もしこういう状態になったら、これからの対策を考えるだけでなく、あの放蕩息子の父親をまねるときだと考えよう。子どもの自由を尊重しつつも、彼が過ちを正したいという望みの発端が現れたら即座に助けの手をさしのべる心構えをもって彼に会いに出向くのである。そして天に向かってこう言おう。「私の神よ、次はあなたの番です」と。「父親は忍耐強くなければなりません。待つよりほかに何もできないときもしばしばあります。祈りながら忍耐、優しさ、寛大さ、そして慈しみをもって待つのです」(フランシスコ、2015年2月4日謁見)。