読書―2。最もよいものを選ぶ

本や他の読者との対話は、読む経験を強化し、展望を発見し、絶望を防ぐ、いつも足りない読む時間を最適化することをもたらす。

人格形成
Opus Dei - 読書―2。最もよいものを選ぶ

 人の一生を変える書物がある。聖アウグスティヌスはキケロの『ホルテンシウス』を読んで、人生の行き先を変えた。ずっと後で『告白』の中でこう述懐している。「この書物は私の情念一変し、そして主よ、私の祈りをあなた自身に向けさせ、私の願いと望みを改めさせた。(…)あなたの計画に帰ろうと立ち上がりはじめた。」(『告白』3,4,7)彼の神への道のりは、いろんな回り道をした後、改心へのより決然とした方向を取った。ここでもまた偶然手に入った本、『ローマ人への手紙』の一節が彼をなお引き止めていた壁を打ち壊したのだった。

見つけた情報を共有する

 すべての本がそんなに劇的に人生の方向を決定するというわけではないが、読書は読む人を変えていく。本は魂を細やかにしたり、鈍感にしたりする。あるいは広い視野を与えてくれたり、視野を狭めたりもする。私たちの人格は、時が経てば経つほど、何を読んだか、また何を読まなかったかを反映する。何年もの間、しっかりした基準に従って選択された読書から栄養を吸収した人は世界と人々に対する開かれた見方を身につけ、複雑な現実の中での自己の置かれた位置を知り、つまらないことを捨て偉大なことを感知するために必要な感受性を培う。

すべての本がそんなに劇的に人生の方向を決定するというわけではないが、読書は読む人を変えていく。本は魂を細やかにしたり、鈍感にしたりする。あるいは広い視野を与えてくれたり、視野を狭めたりもする。

 私たちを成長させてくれる本に出会うのはいつも簡単というわけではない。娯楽の本ですらいつも簡単に見つかるわけではない。そのため他人に尋ねることがとても役立つ。ある町に家を建てようとする場合、土地の人に尋ねるなら、GPSではわからない価値ある情報を教えてくれることもよくある。また、読書に通じた人に導いてもらうだけではなく、今度は私たちがよい読書について他人に薦めることもできる。自分が読んでいるものについて話すことは家族生活や友達との会話を豊かにし、ときには文学サロンや他の文化的活動に発展することもある。良い読書が口コミでとても効果的に広がっていくのなら、読書クラブを作ったり、よい本屋に足しげく通ったり、本屋さんと付き合い頻繁に話をしたりすることも役に立つ。

 年齢やテーマや好みによって分類された、良書の選集が沢山ある。それにしても、最良の選集は、各自が独自に作っていくもので、それは似た好みをもつ友人の助言や、授業や会話などでの先生や友人の何気ないコメントをもとにして作られる。興味を引かれる本をすべてすぐに読むことは無理なので、計画を立て、今読む本、後で読む本というふうに読書の順番を決めておくのがよい。こうすると読み忘れる本がないということで安心できる。またもっと読みたいと思うとき、たまたま手に入ったものを読むしかないという事態を避けることができる。

 インターネットは巨大なコピー機のようであると言われた。印刷機が発明されて以来、書物の出版が容易になればなるほど、価値のない本が叢生することが確認された。しかしながら、インターネットは無数のつまらない記述 ―ときによい意向をもって作成されたとはいえー とともに、今の現実を的確に示す文書、あるいは多くのマスコミがほとんど問題にもしない本質的な思想を紹介する文書を載せている。ここにおいても、よい助言者の助けを得て、また自分の経験を鑑みて、信頼できる著者やサイトを見つけて置くのは無駄ではない。特定の内容のサイトに登録するための、あるいは興味を引く文書だけをオフラインで読むためのアプリケーションはこの意味でとても役に立つ。インターネットは、絶版になるか、あるいは図書館でも見つけることが難しい古典文学や古い書物を読む可能性も増してくれる。.

「ある番組がわたしにとって良いものでない、つまり私が大切にしている価値観をあざ笑い、私を軽薄な人間にする、あるいは汚れたことを見せるとわかったら、私はチャンネルを変えないといけない。本が良ければ読む、害を与えるなら、捨てるのです」(教皇フランシスコ)

本と対話する

 批判(吟味)とは語源的に「見分ける、選択する」という意味である。批判の能力をもって読書をするとは、それぞれの本の最もよいものを取ることを意味する。作家たちも私たちと同様、自分を取り囲む環境や文化に影響を受けている。それゆえ、本を読むときは、たとえば次のように問うてみてはどうだろう。なぜこの著者はこのような表現をするのだろう。登場人物たちを通じて表そうとしている当時の理想は何だろう。友情や赦しや忠実といった普遍的な価値について著者はどう考えているのだろう、などなど。言うまでもなく、著者を危険視して読めということではない。そういう態度の裏には、ときにはネガティブな世界観や自分の知識や思想についての自信のなさが隠れていることがある。それよりも一つ一つの本に光と影を見いだそうとするべきで、場合によってはいくらかの本に現れる思想や判断を清めることである。このようにすれば、本との対話が始まり、それは著者との直接のやりとりに至ることもあり(多くの場合、作家は読者が自分の作品について感想や提案を伝えてくれるのを感謝する)、自分の確信を検討し直すこともある。読者からの手紙を読んで、ある著者は作品に修正を加えるかもしれないし、またある人は少なくともニュアンスを変えるかもしれない。キリスト教徒にとって、バランスのとれた批判的精神を培う最良の方法は、どうすれば社会をキリスト教に近づけることができるかという使徒職的関心をもって本を読むことである。楽しい時間を過ごそうという気持ちだけでなく、我々と同時代の人の思想を理解し、それを浄化し福音の諸価値と和解させたいという望みをもって読むことである。
 このような態度を保つなら、読書は深く堅固で理性的な確信を形成し、しっかりした判断基準を持ち人格を発展させるのに役立つ。映画も似たようなことがある。ある映画がその内容や映像によって私たちを感動させるとき、世界や人間の一面をより見える形で表しているのだ。そうして各人は自分の判断力を形成し、自分が納得し他人にも説明できる基準をもとにして正しい決定をすることができるようになる。キリスト教信仰に根ざした個人的な価値観を獲得し、信仰に一致した生活を堅固にすることになる。

何かが心の中で動く

 よい読者はよく同じ本を何度も読み返す。かつて心を動かした本に戻るのだ。再読ができるために効果的な方法はときどきメモを残すことで、それによってある本を読んだとき照らされた魂の隠れた経験に戻ることができる。この習慣は私たちが自分を知ることを助け周囲を観察する目をより鋭くすることを助ける。メモを取ることで、むかし感動した物語や文章をもう一度読みたいと思うのに、その箇所が見付からないという悲劇を避けることができる。

 なにごとにおいて同じ事が言えるが、ここでもバランスを考えねばならない。もっぱら私たちの記憶力に頼ることもよい。記憶力は想像以上に多くのことを覚えているからである。他方、読書は書物との内的な対話を暖める人においてもっと深い影響を残す。その影響は、多くの場合、文章全体を書き写すというよりも、受けた印象をメモすることによって与えられる。それはたどたどしい仕方で、内部で生まれたぼんやりした直感に輪郭を与えていく。この根気のいる作業によって、世界や文化や人の内面を探求する私たちの旅は豊かなものになる。風景は単に私たちの目の前を通り過ぎて消えていくのではなく、私たちの内部で具体化され、人々がどのような問題を抱えているのか、どのような夢や才能を持っているのかを理解させてくれる。こうして、私たちは世界をよりよく理解し、教皇様が強く励まされる「新しい土着化」による「新しい福音化」という困難な課題に立ち向かうことができるようになる。

個人の責任

 若者たちを連れてマドリッドの病院を訪問していた頃のことを回想しながら、聖ホセマリアはこう話したことがある。「彼らに励ましたことは、病人に寄り添い、手や足や顔を洗ったり、爪を切ったり、髪をといたりするような何かの奉仕をすることでした。・・・食べ物を持って行くことはできませんでした。なぜなら禁じられていたからです。でもいつも何か読み物を持って行きました」。羊のことを絶えず考えるよき牧者として、師は読書の際にはしっかりと責任感をもって本を選ぶことの重要性を皆に教えていった。それは読書が人の知的、霊的な形成にとって強い影響力を持つからである。カトリック教会のカテキズムでは、「第一のおきてはわたしたちに、賢明に警戒して信仰を養い守り、信仰に反するあらゆることがらを退けることを要求します」とある。また似たようなことを教皇様も言っておられる。「ある番組がわたしにとって良いものでない、つまり私が大切にしている価値観をあざ笑い、私を軽薄な人間にする、あるいは汚れたことを見せるとわかったら、私はチャンネルを変えないといけない。ずっと昔は皆がそうしていましたが、本が良ければ読む、害を与えるなら、捨てるのです」。本を選ぶとは、友達を選ぶとき、またどんな映画や芝居を見に行くかを決めるときのように、キリスト信者にとって責任を伴う自由な行為であり、道徳的な善悪に関わる行為である。

 無知や軽薄さによって悪い本を読む危険をさけるために、一つの助言は沢山読むのがよいということだ。異なる著者、多様な内容の本を。こうしてオープンなメンタリティを育て、根拠のない偏見を打ち破り閉鎖的な小グループから抜けだし、魅力的な仕方で信仰を生き伝える準備ができる。同時に、自らの形成に対する責任を感じれば、質の高い本を読もうとするだろう。つまり、人間的にも超自然的にも成長する助けとなる本を選ぶのである。この点に関しての賢い助言を一つ。「偉大な本は寛大な王のようである。あたかも自分と同列の人であるかのように読者に接する。二流の作家は、自分の低い身分を隠すために読者に対し尊大な態度を取る」(ゴメス・ダビラ)。

本の評価はあくまでもよりよい読書をするための案内である

 よく本を読む人の助言は、読書の計画を立てるために、また様々な著者を知り、どの点に足らないところがあるかを理解するために、とてもありがたい。好意的な論評のおかげで今まで知らなかった良い作品を発見したり、文化的、知的、霊的な展望を広げたりすることも珍しくない。あるいは憎しみや対立を助長したり、宗教を攻撃したりする有害な読書で時間を無駄にすることから私たちを守ってくれる。また、読む側の知識が不十分なために害を受ける読書もある。大人にとっては問題なくても子どもにとっては堅くて食べられないパンもある。自分の限界を認める知性の謙遜を持つのが良い。これは偽善ではなく、分別である。他人の助けを得るなら、私たちの知的好奇心を導く他の読書方法を見付けることができる。より考えられた読書によって鍛錬された後で、その必要がある場合、以前なら害を受けただろう本を読んでみることができるようになるだろう。要するに、各自が読書によって作っていく文化がイエス・キリストの教えを体現し、自分の生活経験と合致するよう努めることである。害のある本を読む人だけでなく、少ししか読まない人も、異なる仕方であるが、誤りに対して抵抗力を持たない。

助言することと助言を受けること

 隣人の助言に大いに価値があるという事実は、この分野に関して各自が互いに協力することが必要であることを示す。家族や友人が質の高い良書を探すときに個人的な助言はいつも役に立つ。本や映画や文化的な批評を提供する企画に参加するのも有用だ。数分だけでも読書についての感想を交換することは多くの人の助けになることもある。ただし、ここでも「最善はときには善の敵」ということわざが通用する。まだ読後の感動が冷めていないときに書き留めた短い紹介の方が、長く詳細な書評より実用的であることがよくある。このような試みに協力してくれる人が多ければ多いほど、書物の紹介はより客観的で的を射たものになるだろう。

 雑誌や新聞などの書評欄も役立つことがある。評者が信頼できるかどうかを知るのは、その職業上の評判、どんな文化的、教義的教育を受けたか、または意見を述べ方を見ることによってそれほど難しいことではない。読書の選択をするとき大いに助けになるのは、このような様々な意見を参考にすることである。

 ともかく、読書において助言を求め、受けた助言を参考にすることは必要ではあるが、几帳面すぎる考え、あるいは表面的な考えを避けるのも大切である。ある本についての具体的な評価は、読書の方向性を示し危険を避けるということ以上のことではなく、これらの評価のあるものが時間とともに変化したとしても、あるいはある人に対しては不都合はなくても、別の人にはそうであるとしても、何の不思議もない。本の評価はあくまでもよりよい読書をするための案内である。同時に、霊的指導において読書の助言を仰ぐことを否定するものでもない。他方、文化的な作品の道徳的評価に注意するべきであると強調することが、本質的なことから目をそらさせるようなことになってはならない。つまり、読書の重要性、各自の可能性に応じて、できるだけ沢山読むことの重要性である。

 「霊を消してはなりません。預言を侮らないようにしなさい。しかし、そのすべてをよく吟味しなさい。そのうえで道理にかなったことを大切に保ち、悪いことならどんなことであっても、それに近づいてはなりません」(『テサロニケ前』5章19~22)。開かれた考えをもつことや広い展望を持つこと、それらが真実なものになるのは、真理と美を探し求め見いだすことに情熱を感じるときである。