生きるための教育

子供たちを大切にするということは、子供たちが自分自身をコントロールできるまで育てること、つまり自由な人間にすることです。 「家族と子育て」についての記事。

子育て
Opus Dei - 生きるための教育

 若者の育成ほど魅力あふれる仕事はありません。これは神ご自身が両親に託された基本的な役目です。喜びのうちに、忍耐と強さを持って携わるべきデリケートな役目です。困惑することの多い役目ですから、度々、主に馳せ寄り、助けて頂かなければなりません。養育することは、子供たち一人ひとりに宿っている能力を引き出して育み、完成させようと励む芸術家の仕事です。また、人々に配慮することの大切さを見出すように助け、真の人間関係を築くこと、また、恐れずに責任を引き受けるよう教えることも必要です。つまり、一人ひとりを、神のご計画に応えることができるようにすることです。

 いつも難しい環境がありますが、同時に向上を目指し得る側面もあります。創立者が両親をこう励ましています。「子供たちの気高い理想だけではなく突飛な行動をも穏やかに受け入れるような若々しい心を持ち続けることです。生活は変化し、私たちの好みではないような新しいものが数多くあります―客観的に以前よりも良くなったとは言い難いものもあります―。かといって悪いものでもありません。単にそれは生活様式が変化しただけで大したことではありません。時々問題が生じるのは、些細なことを重要視し過ぎるからです。少し視点を変えユーモアのセンスで見れば何でも無いことです」[1]

 教育は難しい仕事で、常に改善の余地があり、不完全ですが、失敗からも学ぶことができます。生きるために教育する、という明確な目的のもと時間をかけて形成を与えていくのは価値あることです。

権威と自由

 両親が、豊かな暮らしと幸せを混同すると、子供たちにあらゆるものを与え、できる限り楽をさせ、あらゆる反対に合わないようにと一生懸命になり、子供たちを「思いっきり愛する」―これは普通のことです― ことだけではなく、「よく愛する」ことを忘れてしまいます。客観的に見て、出来上がったものだけを手にし、戦う必要のないことは、子供にとって良いことではありません。自己と戦い、努力することは、成長し、成熟し、自己の主となり、外部の様々なことに影響されることなく自由に振る舞うために不可欠なことです。

 「カトリック教会のカテキズム」にこうあります。人の本性は傷ついたものであることを無視した教育は間違っています[2]。原罪とその結果 ―弱さと悪への傾きの結果、自分に打ち勝つことが必要― を念頭に置くことは、自由な人を育てるための必須条件です。自分の好みや自然な傾きをそのままにしている子供や若者は、坂を転げ落ち、自由の力を麻痺させてしまうことになります。もしも、年齢相応のやり方でこの傾きに立ち向かわせ、戦いを勧めないならば、相応しい生活設計をすることが実に難しくなるでしょう。子供を「正しく愛する」とは、自分自身を支配できる人となるような状況に置かせ、自由な人にすることです。それには、限界と規則の存在に気づかせ、それを心に植え付けることが基本になります。しかし、これは、子供だけではなく、両親にも必要なことです。

 教育とは、諸徳を身に着けさせることでもあります。自己否定、勤勉さ、忠実、誠実、純潔…、についてやさしく魅力あるように教えると同時にそこで要求されていることをうやむやにしてはなりません。物事は最後まできちんとやり遂げるべきことを動機付けしつつ、失敗しても大げさにしたりドラマチックにしたりせず、経験を積んだのだと、より気高い目標に向かって努力を惜しまないように励ますことです。ともかく、自分に要求し、自分と戦うように導くことが必要なのです。この時大切なことは、自分に要求すること自体が目的ではなく、両親から独立して正しく振る舞うための学習手段であることを教えることです。

 子供や若者は未だ多くの義務の意味を把握していません。その経験不足を補うにはしっかりとした支えが必要ですから、彼らの信頼を得ている人が権威をもって導くべきです。具体的に、両親と教師が権威をもって支えることが必要です。彼らには、子供たちが自由と責任をもって行動することを教える大切な役目のあることを忘れてはなりません。聖ホセマリアが言っています。「子供たちの教育においては、自由と権威を上手に組み合さなければなりません」[3]

 両親の権威は、強く独裁的な態度からではなく、良い模範から生まれます。つまり、夫婦間の愛、子供たちが両親に見る一致した基準、寛大さ、子供のために割く時間、子供たちへの愛情 ―要求することを知っている愛情―、家庭におけるキリスト者としての生活態度、また子供に信頼をもって応じ、はっきりと話すことなど。

 この権威には剛毅が伴っていなければなりません。年齢や状況によって理に適った要求の仕方を測りながら、愛情を込めて確固とした態度で権威を発揮することです。子供たちにいやな思いをさせたくないという間違った愛情に引きずられると、しまいには受け身的でわがままな人になってしまいます。創立者があるときこう言っています。「まずすべきことは、優しすぎたり、厳しすぎたりと言う両極端を避けることです」[4]。聖ホセマリアは、他の折に両者のバランスをとる難しさに言及し、ご自分の幼少時代を振り返っておられます。「好き嫌いの激しい子供とその母親の行動を話しましょう。それが嫌いなの? じゃあ、食べないでおきなさい。他の人が言いました。別のものを作りましょう…。いいえ、特別なことをしないでください。―母親が答えました―、そのうち別のものを食べるでしょう。この子はピーマンが苦手で14歳まで口にしなかった馬鹿な子でした。食わず嫌いだったのです。食べているうちに好きになっていきました」[5]。両親は権威と思いやりを組み合わせて子供たちを導かなければなりません。家庭で子供たちのわがままを糺さないことは面倒な状況を避けたい安楽さの表れです。

 忍耐をもって、悪いことは悪いと分からせることです。こうして良心は形成されます。善悪を判断し、すべきことと避けるべきこととを識別する機会を逃さないことです。年齢に応じた思考法で、神と人々を喜ばせることに気づき、そしてその訳をも知るようになっていくでしょう。


 成熟するとは自分自身から出ていくことですが、それには犠牲が伴うものです。最初、子供は、「自己中心の世界」にいますが、大きくなるに連れ、宇宙の中心は自分ではないことに気づき、現実と人々に関心を持つようになっていきます。それと同時に、兄弟のために犠牲になることや兄弟に仕え、家や学校での義務と神への義務を果たし、従うことをも学びます。わがままや両親を悲しませることを避けるよう努めます…。誰も一人でこの歩みを続けることはできません。両親の使命は、時には少し苦痛を感じることがあるとしても、彼らのもっともよい点を引き出すことです。

 愛情と想像力、そして剛毅の徳で、子供たちを堅固でバランスの取れた人格の人になるよう助けなければなりません。子供たちも年と共に、両親の気紛れのように思えた、振る舞いや禁止事項、あるいは命じたことなど多くの事柄の真意を理解していくでしょう。そして心から感謝するでしょう。また、当時は苦痛だったあの明白で厳しい言葉 ―怒りではなく、愛から出た― にも感謝するでしょう。さらに、子供たち自身も自分の子供たちの躾け方を学ぶでしょう。

生きるために教育する

 教育とは、通常、困難が付きものの人生を歩む準備をすることです。普通、専門職で、人間的あるいは霊的な生活で何らかの目標を達成するには努力が必要です。それならばなぜ、子供たちが何か物的な手段のないことで失望するのを恐れるのでしょうか。生計を立てる苦労、また知性ある人たち、幸運をつかんだ人たち、あるいは社会的に信望のある人たちと共に生きることを学ばなければなりません。物的人間的な欠乏や限界に対処すること、価値ある事業に着手したいならそれに伴う諸々のことに対する責任を引き受けること、失敗は人間としての敗北を引き起こすものではないと考えることを学ぶべきです。

 道を平らにし、ほんの僅かな躓きをも防ごうと懸命になることは、子供たちに善をもたらさないばかりか、彼らを軟弱にし、大学や職場で、あるいは人々との関わりにおいて遭遇する困難に対処できない人にしてしまいます。困難に対処できるようになるのは、ひとえにそれに立ち向かうことで成就されるのです。

 子供たちがあらゆるものを身に着け、彼らのわがままに屈して望みを叶えることなど全く必要のないことです。反対に、手放すこと、待つことを学ばせるべきです。事実、人生には、待つことのできるものが数多くあり、また必然的に待つべきことが多いものではありませんか。聖ホセマリアは、このことをまたとない明確さで、こう語っています。「お金に寛大すぎてはなりません(…)。子供たちに、つつましい生き方、少しスパルタ式の生き方を学ばせることです。つまり、キリスト者としての生き方ができるようにすることです。難しいことですが、勇気を出さなければなりません。つつましく生きるよう躾けることの大切さを納得しなさい。さもないと、元も子もなくしてしまいます」[6]

 あらゆる障害から子供たちを遠ざけようとする過保護な接し方は、無防備な状態で子供たちを世の中に出すことになります。このような過保護は根本的に真の教育とは相いれない態度です。

 教育するという言葉はラテン語のe-ducere (引き出す)とe-ducare (育て上げる)と言う二語から出ています。前者は、人間としての全面的な発展に向かわせる諸価値を〈教え与える〉行動に関わることです。後者は、自分自身が与えうるもっとも良いものを当事者から〈引き出す〉行動を指示する言葉です。あたかも芸術家が大理石の塊から素晴らしい彫像を〈作り上げる〉のに似ています。いずれにしても、教育に置いては、自由が決定的な役割を果たします。

 両親は、保護主義的な態度の代わりに、子供たちが自分で決め、それからもたらされることを引き受けるように仕向け、小さな問題を自分で解決しようと努めさせる方がいいのです。一般に、あらゆる教育事業の優先課題ですが、自己責任で対処できるような環境を整えることです。同時に、この自己責任は彼らの実行能力に沿ったものであるよう注意しなければなりません。未だ慎重な扱い方を知らないような、経済的物的手段を与えるのは益の無いことです。一人でテレビを見たり、インターネットを自由自在に操ったりしないようにすべきです。子供がどんなビデオを持っているかを把握しておくのは理の当然です。

 責任感と自由を育むことは表裏一体をなしています。全ての行動の訳を聞くことに熱心になり過ぎると、子供が自分の間違いに責任を取ることに構わなくなる恐れがあります。自分の行動の価値を見直すことをしなくなり、その結果、自己を認識し、経験を積むこともできなくなります。もし、たとえば、学校での決定事項を受け入れるよう手伝うべきところで、教師とか教育制度とかのせいにするとしたら、子供たちは、非現実的なやり方で人生に立ち向かうようになるでしょう。そして、ただ良いことだけを自分の責任にし、失敗とか間違いとかを自分以外からもたらされたと考えるようになってしまいます。そうすると、間違いや失敗をシステムとか同僚とかのせいにし、不平ばかり言うようになるでしょう。また、自己憐憫や見返りを求めるようになり、成熟した人にはなれないでしょう。

常時教育

 これまでに提案したことは青少年期とか子供たちを特別集中的に教育する時期のためだけではありません。両親は、―いろいろな方法で― いつも教育に当たります。小さな子供でも、無意味でどうでもいいような行動をすることは決してありません。〈小さな暴君〉の姿が垣間見られるのは何も不思議ではないのです。子供は、4~6歳にもなると、彼らを教育する両親の手に余るようなわがままな決まりを家族に押し付けます。

 しかし、両親は〈いつも躾ける〉だけではなく、〈幾つになっても通用する躾をする〉ことが必要です。教育が、将来に目を向けることなく、ある時期の一時的な状況を打破するだけに留まるとしたら、あまり役には立たないでしょう。必要な自主性を培うことが危うくなり、依存心を増すことになります。はっきりと把握できる最たる事柄は、消費主義、官能的なこと、あるいは麻薬などです。あまり目立たないといっても、流行りのイデオロギーから派生する事柄の中にも、軽視するわけにはいかないものがあります。

 子供たちが家族と共に過ごす時間には、限界のあることに注意しなければなりません。さらに、子供たちと共に過ごすことがもっとも必要なこの年代に、両親は彼らの傍らにいないのです。現代の多くの人が子供たちと過ごすことが難しい問題を抱えています。確かにこれは、これまでに述べてきたある状況の原因になっています。子供たちと接する事がほとんどなかったら、彼らに要求することはいたって難しくなります。第一、彼らが何をしているか分からないし、彼らのことをよく知らないのですから。また、ほんのわずかな時間を共有しているだけでは、急な坂道を登らせるような無理な要求をしてしまい、〈苦しませてしまう〉ことになります。何事にも替えがたいのが家庭での時間です。

信頼

 両親の権威は、子供たちが受け取る愛情によります。子供たちは通常、注意されたり関心を示されたりするとき、また、彼らのために時間を割いてくれたことを知った時に、両親の愛情を実感するものです。この背景の下で権威をもって適切に子供たちを助けることができます。つまり、彼らの悩みとか勉強や友だち間での問題点、よく出入りしている場所や時間の使い方を知り、彼らの喜びとか悲しみをどのように受け止めているかを考え、彼らの成功や失敗を把握することです。

 子供たち、青少年や若者たちは恐れずに両親と話すことです。子供たちと交わり、話し合うことができたら、その形成はどれほど進歩することでしょう。創立者は心を込めて助言していました。「子供たちが、父親も14、5歳のころには何か馬鹿らしいことをしでかしたことを知るのはいいことです。しかし、そんな時には、父親に ―子供にとっては祖父― 打ち明けることで問題を解決し、助けてもらっていたことを言い添えるべきです。

 このことに関しては少し大げさに話しても主のお叱りを受けることはないでしょう。その後、一対一で、顔を合わせて信頼を込めて話しなさい。もう少し子供たちのための時間を作ることです(…)。

 もしこのように子供たちと接するなら、子供たちは変わって行き、あなた方父親のことを気に掛けるようになるでしょう。子供たちの友だちになったのですから」[7]

 この信頼関係を絶えず深めるようにしなければなりません。子供たちの言葉を疑わずにいつも信じ、父親に近付き難い距離を作ることなく、なんでも打ち明け易いようにすることです。

 学校や子供たちが出入りしている何らかの教育施設の専門家たちの援助は大いに役立つでしょう。子供たちは、そこでの個人的な指導によって非常に意義ある人間的な形成を受けることができます。しかし、このような教育施設の仕事は、子供の第一の教育者である両親の務めに代わることはできません。それには、子供たちのために時間を作り、彼らと共に過ごし、子供たちのことを考え、タイミングを見つけ、彼らのやり方を受け入れ、信頼を示すことが前提となります。

 家族を心から信頼することです。不可能と思えるところで時間を工面し、活用するように最善を尽くすことです。それには、多くの自己犠牲が予想され、大きな犠牲を伴うこともあるでしょう。場合によっては経済的に打撃を受けることもあるでしょう。職業上の名声とは何かきちんと理解するならば、それはより広範囲に及ぶものであるということが分かります。人間としてキリスト者としての名声は、仕事の成功を凌駕する家族の善に寄与することです。この分野で時折現れるジレンマは、信仰によって祈りの中で神のみ旨を求めつつ解決しなければなりません。

 希望は両親にとって極めて必要な徳です。子供の教育は大きな喜びであると同時に、決して小さいとは言えない悩みや心配が伴います。いずれにせよ、失敗したという思いをいつまでも引きずってはなりません。逆にいつも楽観的に、信仰と希望を持ってやり直すことができるのです。努力が実らないことはありません。たとえ、なかなか目標に達しないとか、結果が表れないとか思えても、必ず実りはあるものです。父親母親であることに終わりはありません。子供には、大きくなり独立した後でも両親の祈りと愛情がいつも必要です。聖マリアはカルワリオでイエスを一人きりにはなさらなかったのです。最後まで献身し犠牲を捧げられた聖母の模範は、神が両親に託されたこの素晴らしい務めに光を照らします。生きるための教育、それは愛の仕事です。



[1]『会見記』100番。

[2]『カトリック教会のカテキズム』407番参照。

[3]『光に満ちた明るい家庭』68ページ。

[4] 同上 73ページ。

[5] 同上 72ページ。

[6] 創立者、説教のメモ「二か月間の要理指導」II, 707ページに記載。

[7] 創立者、説教のメモ「二か月間の要理指導」 II, 806ページに記載。