​53.ニケア公会議で何が起こりましたか?

第1ニケアア公会議は最初の公会議です。すなわちキリスト教徒が存在するあらゆる地域の司教たちが一同に会したという意味で普遍的な性格をもつ会議でした。

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 この公会議は、教会が安定した平和を享受することができ、公に集会を開くことが出来ようになった状況下で開催されました。会議は325年5月20日より7月25日の期間で開催されました。その会議には、つい最近まで行われていた迫害の中で信仰を貫いたがために刑に処せられ体に傷を負った司教たちも参加していました。


 その会議が行われた時にはまだ洗礼を受けていなかった皇帝コンスタンティヌスは司教たちの参加を容易にするために、帝国の駅舎を彼らが旅行に使用できるように開放し、また、ニコメディアの皇帝住居に近かったビティニアのニケアで司教たちをもてなしました。324年にリキニウスに戦いで勝ち帝国の再統一を図ったばかりの皇帝にとって、この会議は非常に時宜を得ていると思えたのでした。また、同時に、イエス・キリストの真の神性を否定する司祭アリウスにより揺れていたキリスト教会の統一を図りたいと考えたのでした。318年以来、アレクサンドリアの司教アレクサンダーと対立していたアリウスは、エジプトの全司教による教会会議において破門されていました。その後アリウスはアレクサンドリアを抜け出し、友人であったニコメディアの司教エウセビオスのもとに逃れました。

 公会議の教父の中にその当時の最も重要な聖職者も含まれていました。公会議の司会を務めたと思われるコルドバの司教オージオも参加していました。他の出席者の中には、当時は助祭であったアタナシウスを伴ったアレクサンドリアの司教アレクサンダー、アンカラの司教マルケロス、エルサレムの司教マカリオス、カッパドキアのカイサリアの司教レオンティウス、アンティオキアの司教エウスタティオス等がいて、その他に高齢のために出席できなかったローマの司教の代理を務めた数名の司祭がいました。更に、アリウスの友人であったカイサリアのエウセビオスやニコメディアのエウセビオス、その他何人かのアリウス支持者も出席していました。全部で約300人もの司教が参加していました。

 皇帝コンスタンティヌスの好意をあてにしたアリウスの支持者たちは、公会議はただちに自分たちの主張を受け入れるだろうと考えていました。しかしながら、ニコメディアのエウセビオスが、キリストは高く傑出しているが人間以上ではなくまた神性がないと述べて口火を切ったとき、出席者の大多数はただちにその主張は使徒たちから受け継いだ信仰を裏切るものであると気づきました。重大な混乱を避けるため、公会議の教父たちは、カイサリア教会の洗礼用信条をもとに、信条を作成しました。その信条は、キリスト教の最初の時代から受け入れられ認められた信仰の真の宣言を総合的かつ明白に反映したものです。その信条では、イエス・キリストは「父と同じ本質、神よりの神、光よりの光、真の神からの真の神、造られずして生まれた、父と同一実体である」と謳われています。二人の司教を除く、すべての公会議の教父たちはこの信条をニケア信条として325年6月19日に承認しました。

 この根本的な問題に加えて、ニケア公会議では、復活祭の日を、ローマの教会と多くの教会の慣習に従い、春の最初の満月の後の最初の日曜日とすることを決定しました。また教会内部の運営に関するさほど重要でない規律上の問題も議論されました。

 最も重要な議題である、アリウス派異端の危機に関しては、しばらくしてコンスタンティヌスの支援をあてにしたニコメディアのエウセビウスは司教座に帰り着くことが出来、皇帝自身もコンスタンティノープルの司教にアリウスを教会との交わりに復帰させるように命じました。一方、アレクサンダーの死によりアタナシオスはアレクサンドリアの司教となりました。4世紀における教会の中で最も偉大な人物の一人であったアタナシオスは、極めて優れた見識をもってニケア信条を擁護しましたが、まさにそのために皇帝により国外へ追放されてしまいました。

 アリウス派の考えに近い歴史家のカイサリアのエウセビウスは、その著書の中でニケア公会議でのコンスタンティヌス帝の影響をいささか誇張して記述しています。もしこの文献のみを手がかりにするなら、皇帝は会議の最初の挨拶の言葉を述べるのみならず公会議に出席した司教たちに対して教義上の問題を提起し対立する人々を和解させ、一致を回復させる主役を演じたことになります。それは事実を歪めた記録です。

 入手可能なあらゆる諸文献を調べると、確かにコンスタンティヌスはニケア公会議の開催を容易にし、実際その会議に影響を与え、そしてあらゆる協力をしたと言えるでしょう。しかしながら、文献を更に深く調べると皇帝はニケア信徒の作成に何ら影響を与えていないことが分かります。というのも、そこで議論された問題で采配をふる神学的知識を持ち合わせていなかったからです。特に公会議で承認された信条は、アリウス派に傾いていた皇帝自身の考え方にはそぐわないものでした。皇帝は、イエス・キリストを神ではなく卓越した人物であると考えていたのです。